竜の王国シリーズ

竜珠の在り処




 獅苑が城へ戻ったとき、出迎えた兄夫婦は不安げな様子で待っていた。いつもならば必ずともに飛竜に乗っているはずの里珠がいないのを見て、表情が険しいものへと変わる。
 飛竜を竜舎へ連れて行くよう手配し、天眞と悠那の前に立つと、何よりも最初に泣きそうな声音で悠那が呟いた。
「やっぱり……里珠が行方不明なのは本当なのですね……」
 獅苑はそれに静かに頷く。悠那がそのことを知っているのは、獅苑が帰城するより先に伝令が戻っていたからだ。

 後ろで控えていた副官の霞炎が補足するように口を開いた。
「全員で周辺を捜索しましたが、姿どころか手がかりひとつ見つけられませんでした」
「報告にあった通り、神殿に使いをやって桜華を召喚した。参上するまでにまだ時間がある。少し休んだ方がいい、獅苑」
 兄の言葉に、獅苑は力なく頭を振る。周囲の視線は明らかに獅苑を案じていた。自分でも蒼白な顔をしているだろうことはわかる。けれど、どうせ休めはしないこともわかっている。
 横になって体を休めようとも、この焦燥は徐々に獅苑の精神を蝕んでいくことは明らかだ。何かしている方が――それがたとえば里珠の捜索にかかわることでなくても――気が紛れてよほどましだと思うのだ。

 里珠が消えた後、周囲を捜索したのは万が一を考えたからだが、それでもおそらく徒労に終わるだろうとは予測していた。
 獅苑は里珠の消えた先を追うことができない。それができるのは、不思議なことに竜珠にかかわりのないはずの彼の姉・桜華だけなのだ。かつて天眞が行方の分からない竜珠を託した相手を探すときも、彼女が誰よりも先に悠那を見つけ出した。
 だからこそ獅苑はまず最初に城に伝令を送り状況を報告して桜華の召喚を願ったのだ。彼女ならおそらく里珠の居場所を探し出せる。しかも、悠那を探し当てたときとは違う。彼女は既に里珠の持つ竜珠の輝きを見ている。
「大丈夫です。一刻も早く里珠の居場所を見つけ出さないと……」
 場合によっては里珠の命にかかわる。そして、もし彼女に何かあったとすれば――。




「……」
 里珠が目を開けたとき、視界に入ったのは青空だった。正確には、まっすぐ彼方へ伸びる木々の先に、切り取られた水色。里珠の混乱などどこ吹く風、という雰囲気で緩やかに下から上へ横切っていくのは間違いなく雲だ。
 背中というよりは体全体がひんやりする。頬に何かが触れてくすぐったい。里珠が視線を横に向けると、そこにあるのは草だった。
「……森?」
 どうやら自分は地面に寝転んでいるらしいとわかり、里珠はもう一度空を見上げて呟いた。
 いったいどこの森だろう。とりあえず、里珠のいる世界のどこかなのは確かだ。空が紫とかじゃなくてよかった、と悠那に聞いた御伽話を思い出しながら、里珠はゆっくりと体を起こした。

 痛みがどこにもないことを確認しながら、里珠は自分の身体を見回す。怪我などはしていないようだし、身体のどこかが欠けているなどということもないようだ。革鎧も服も無傷だったし、手にしていた槍も、腰に止めておいた小袋や獅苑からもらった短剣もそのままだ。
 里珠はほっと息をついた。前線から退いた後に上着を着ていてよかったと思う。腰をすっぽり覆えるほどのローブは、里珠の胸元の竜珠だけではなく革鎧や短剣も隠すことができる。何かあっても槍さえなんとかすれば武装していることには気づかれにくいだろう。
 幸い中の幸いは、周囲には全く魔物の気配がないことだった。もし魔物に囲まれるなどということがあれば、さすがの里珠でも切り抜けるのは無理だ。
「ここ、どこだろう……」
 あたりを見回せば、周囲の木々はなんとなく見慣れないものだ。植生についての知識はほとんどない。せめて少しでもわかれば、ここが竜の王国からどれだけ離れているかくらいはわかるかもしれなかったのだが。さすがに、王妃の修行にその辺は入っていなかった。

(獅苑様……心配するだろうな)
 熱を帯びる胸元の竜珠に上着越しに両手をあてて、里珠は大切な人のことを想う。きっと心配なんてことでは済まないだろうに。自分が魔物の攻撃を避けきれなかったときの様子を思い出して、里珠はきつく目をつぶった。
 それに。あたりには魔物の気配がないからまだいい。もし、近くにいて竜珠に気づかれたら? あたりを埋め尽くすほどの数の魔物に追われ、不安定な木の上に追い詰められたのはそう遠い昔の記憶ではない。あの時の絶望と恐怖感と、笑うしかなかったあの覚悟。今度そうなったら一巻の終わりだと思う。助けてくれた獅苑が、今度も来てくれるとは限らないのだ。
 考えただけで、背中にぞわりと悪寒が走った。
「……帰らなきゃ」
 ここがどこだか調べて、竜の王国とどれだけ離れているのか確かめて、獅苑の元へ戻る方法を考えなくては。見知らぬ場所。助けてくれる人はどこにもいない。
 里珠は唇を引き結び、腰につけた小袋を見つめる。皮肉にも安心のために持った非常用の荷物が早速役に立つというわけだ。陸続きの場所なら、とにかくひたすら歩けばいい。問題は関所だが、せめて大使が派遣されている国ならば、そこに駆け込めば何とかなるかもしれない。もし獅苑が里珠を探してくれるのなら、きっとそこにも密かに連絡がいくはずだ。
「よし、……行こう」
 勇気づけるようにつぶやくと、里珠は勢いよく立ちあがる。ここがどこで、この森がどれだけ広くて、人の住むところがどのあたりにあるのか見当もつかないが――。

 里珠は目を閉じてあたりに耳を澄ましてみる。風や生き物の気配を追うのは昔から得意だったけれど、獅苑の竜珠を受けてから、感覚の鋭敏さは遙かに増した。竜族というのは身体が強いだけではなくて人よりずっと大地に近いと言われるが、特に人工物でないものへの親和性はとても高い。竜族の一員となってから、里珠の耳は前よりも小さな音を拾えるようになっていた。
 水の流れる、さらさらという音がする。
 里珠は音のする方へ目を向けた。小川か沢かはわからないが、流れに沿って歩けば下流には集落があるはずだ。そこまでたどり着けば、ここがどこなのか分かるだろう。国が違ったとしても、交易のための大陸共通語の素養はあるから、なんとか意思疎通はできる……はず。
 意を決して、里珠は水があるはずの方向へ歩き出す。
 予想した通りだった。そんなにしないうちに小川が見えてきて、里珠はその流れに沿って歩いていくことにする。幸いにも岩場ではなかったから、足もともひどくない。流れから離れて迂回する必要もなさそうだ。
 空を見上げて、太陽の高さと方向から、おそらくは南の方へ向かっているのだろうと里珠は予測した。
「陽が沈む前に、出られるといいけど」
 まだ陽は高い。それでも、この森がどこまで続くのかもよくわからないのだから。




 祭でもないのに巫女が神殿を空けることはあまりない。多少は時間がかかると予想したものの、思ったよりも早く桜華は城に姿を見せた。巫女ではあるものの王女でもある彼女は、比較的俗世にも簡単に出入りできるのだ。
 若い王族が勢ぞろいする中、一室に案内されてきた桜華は驚いた様子も見せずに全員を見回す。
「――話は聞いているわ。一刻も早い方がいいでしょう、早速始めましょう」
 獅苑の様子を見とがめると、桜華は前置きも何もなしにそう言った。召喚の書状に理由はすべて書いてある。空間の歪みらしきものに里珠が『落ちた』こと、その行方を捜してほしいのだということ。
 桜華の視線に合わせて、彼女が伴ってきた娘と、部屋の中に控えていた女官二人が動き出す。それを国王夫妻と獅苑、そして副官として同席している霞炎が見守った。

 竜珠の行方を捜す占は、もう何年も前に一度行われたことがある。悠那――いつの間にか誕生していた竜珠の姫を探すために。今動いている三人の娘はそのとき桜華と共に儀を行った経験者だった。
 当時の国王妃の竜珠をもとに似たような気配を探す。駄目元で行われたその占は、思わぬ効果を発揮した。結果、人海戦術で探す羽目になった天眞と獅苑より早く、彼女が悠那の元へたどり着いたのだ。
 探されていた当の悠那、その場にいなかった天眞と獅苑、そして霞炎は何が起こるのかただ見守る。

 三人の娘たちが準備を始めるのを眺めながら、桜華は顔を上げた。
「兄上」
 彼女がそう呼べば、その相手は一人きり。国王となった以上、兄弟であっても格が違うが、天眞はなんでもないように応じた。
「里珠は空間の歪みに『落ちた』ということでしたね。それは場合によっては今後の私たちに危険をもたらす――おわかりでしょう?」
 その言葉に、獅苑は当時の状況を思い返す。あのとき、一歩踏み出した里珠の真下に狙ったように空間の歪みが現れたのだ。記憶に残っているのは足場を失って混乱しかけた里珠の姿。『落ちた』としか表現できない様子で、彼女は消え失せてしまった。
 偶然とは言い難い。里珠が足を出した瞬間を見計らったような現れ方は、意図されたとしか思えなかった。
 つまり、未だ見えない敵方は、狙ったところに空間の歪みを生み出すことができるということ。
 それは兄も分かっていることだったのだろう。天眞は迷う様子もなく頷く。
「つまり、悠那や里珠殿を城で護っていたとしても、相手の思惑によっては意味がないということになるな」

 二人のやり取りの間に、用意された卓の上に地図が広げられる。すべての大陸が描かれた、世界地図だ。
「問題は、空間の歪みによって離れた二点をつなぐ、というのが自由にできるものなのか、ということになります」
 卓とその前に立つ桜華の周囲を取り囲むように方陣が作られている。残りの者はそれをさらに取り巻くように部屋の四方に広がった。これで、桜華の周囲だけが特別な空気となる。王城の離れ、大地に近い一階の床。そこから世界へ根を伸ばし、そこにあるはずの同朋――竜珠の気配を探るのだ。すでに里珠の竜珠を桜華は知っているから、悠那を探したときよりは容易いが、問題は範囲が広いこと。時間がかかるか否か。
 桜華の話を反芻しながら、獅苑は方陣を見つめる。兄弟だから、というわけではないが桜華がいることがありがたかった。彼女がいなければ、天眞は悠那と再会できなかったし、獅苑も里珠を探す術がなかっただろう。
 かつて、空間の歪みによって王国内の西南地域と北の街道沿いが結ばれた。それが狙い通りされたかどうかなのだ。もし相手方の意図したように空間をつなぐことができるなら、それは何よりも里珠の危機だ。だが、もし万が一。
「空間の歪みの操作についての文献は聞いたことがないわ。つないでみたらそこへつながってしまった、というのであれば、里珠が相手の手に落ちるまでに時間があるということになるわね」
 桜華は、獅苑をまっすぐ見つめて言った。それが、案じての言葉だとわかる。
「……だと、いいですが……」
 そうであればいい、と獅苑も思う。けれど、里珠の存在を全く関知できない今、楽観もしていられない。
 彼女がどうしているのか、全くわからない。その不安は獅苑を足元から崩そうとするけれど、獅苑はそれに耐えてその場にしっかりと立っていた。誰よりも強い『龍神』の傍にいられることを誇りにしてくれた里珠に応えるつもりで。
 あるいはその努力を見透かしているのかもしれない、桜華は穏やかに笑って、不思議な響きを含む声で宣言した。
「では、始めましょう。――竜珠の気配を探します」




 どれだけ歩いただろうか、陽はだいぶ傾いたがまだ日暮れには早い――そのくらいの時間になって、里珠の視界が開けた。
 密集していた木々がまばらになり、その間から遠くに茶色ばかりが目立つ荒涼とした大地が見える。里珠がよく知る西南地域の風景とはあまりにかけ離れていて、里珠は思わず目を瞬かせた。
 大地の大部分が草に覆われておらずむき出しなのだ。一瞬畑なのかとも思ったが、今の季節を考えても、緑がまばらすぎる。――いや、もしかしたら季節や気候が全く違うところなのだろうか。そのわりにはこの服装でも寒いとは思えないのだが……。
 隣接するほど近くはないが、それでも里珠から見える位置に集落が見える。まずはあそこに行ってみるか。

 森から出ようとして、里珠は思い直し、茂る草むらにそっと槍を隠した。なんとなくというか、勘というか、荒んだ空気を感じ取ったのだ。下手に武器を持っていない方がいいだろう、何かあっても旅人程度に思ってもらった方がいい。さすがにあの槍はきちんと手入れされているから怪しまれる。
 槍がきちんと隠れていることを確認して、里珠は顔をあげる。集落の方へ一歩踏み出そうとして、背後に葉擦れとは程遠いがさがさという音を聞いた。
「!?」
 慌てて振り向くが何もいない。あたりを注意深く見まわしても見当たらない。気持ちを集中してあたりを探ってみると、何かいるような気もするがよくわからなかった。魔物ではないことだけは確かだった。
「……」
 里珠は唾を飲み込み、わずかに急ぎ足で木々の間を抜けると、まばらに建つ家々に向かって小走りに駆けだした。

 近づいていくと、簡単に作られた質素なものだとわかる建物ばかりだった。あからさまに急ごしらえだとわかるものもある。各々の国で家の形も材料も違うとは知っているが、里珠の村でも見ないような粗末な作りだ。文化というよりは、この粗末さはむしろ貧困なのではないのか――。
 あたりに人の姿は見えないが、遠くからざわざわという喧騒が聞こえる。決して少ない数ではない。しかし、なにか物騒なものを感じて、里珠は革鎧や短剣が見えていないか確認し、上着の合わせをしっかり押さえてから、人の気配のある方を覗き込んだ。
 たぶん広場なのだろう、大きく開けたらしいところに人だかりができている。といっても後ろから近づいた里珠が人垣の向こうの光景を見ることができたのだから、そんなに大人数がいる集落というわけでもないのだろう。
 里珠はあたりの人を見て絶句した。あまりいい言葉ではないが、身なりがあまりに貧層だ。誰もかれもが細身――というよりは痩せ過ぎていて、その服も決して上等と言えるものではない。使い古したはずの里珠の上着のほうが立派過ぎて、逆に悪目立ちしそうだった。

 人垣の向こうでは、兵士だと思われる鎧に身を包んだ男たちが、広場のおおよそ真ん中にいるひと組の男女に何事かを叫んでいた。
「――!」
「――!」
 罵っているらしいことはわかるのだが、何を言っているのか、見当もつかない。知らない言葉は早口に聞こえるなどと言うが、そういう程度の話ではない。とりあえず、男たちの怒りの表情と地面に転がされている男女の懇願するような表情から雰囲気だけは察するものの、それでも状況がわからない。
 それを見守りながら周囲の人々は何かをひそひそ話しているのだが、そのやり取りも何を言っているのか単語ひとつ分からない。隣接する国々の言葉を日々勉強させられているが、そこで触れた言語とも違うようだった。
 ――いったいここ、どこなんだろう。
 旅装束のような格好をした男女が、兵士に何事かを責められていて、それを誰も止めることもなくおびえたように眺めている。それが里珠の理解できた目の前の光景だった。
 やがて男女は強引に立たせられ、ひもで後ろ手に縛られ、噂話に聞く奴隷のように里珠のいる場所とは反対方向へ引きずられていく。
 何か嫌な予感がして、里珠はとっさに立ち位置をずらし、兵士たちから見えないように人々の間に隠れる。次の瞬間、ことの成り行きを見守っていた人々に向かって、兵士の一人が大きな声で怒鳴った。その威圧感に里珠は思わず身体が震えそうになったが、それは周囲の人々も同じだったらしい。
 中身はわからないにせよ、その言葉はきっとそこにいる人々を驚愕させるものだったのだろう。

 兵士が足音も高く、先ほどの二人を連れて立ち去ってからしばらくして、束縛から逃れたように人々の輪が崩れる。しかし、人々は元の生活場所へ散っていくのではなく、先ほど兵士がいたらしい一か所に向かって集まっていった。
 流れにまぎれて最後尾からついていくと、そこには何か紙の貼られた看板のようなものが立っている。
 人々はそれを見て、頭を抱えたり、怒りの表情で叫んだり、肩を落としたりした。
 遠くからであったが、里珠にもそのお触れ書きか何かが見える。そこにある文字は、やはりなじみのないものだった。
 里珠の住む竜の王国は、文字が意味を含む。すぐ隣に似たような文字を使う国もあって、そこの言葉は理解しやすかった。対照的にわかりにくいのは、文字が発音を表わす言語だ。割とどこの国も似ているのに、里珠にとっては意味が取りにくい。
 そして、目の前の看板にあるのは、後者の方だ。しかも、その文字に一片の見覚えもない。
 ああ、どうやらずいぶん離れたところにきてしまったらしい――と里珠も周囲と一緒に肩を落としそうになった。
 横書きの文章を目で追って、最後の署名に目を留める。これはおそらく王とか将軍とか、そういった上層の人であるはずだ。やはり文字は読めなかったのだが、そこに押された花押にかすかに見覚えがある。
(あ、あれ? もしかしてこれ……)
 思い至った結論に、里珠は背中に冷や汗が伝うのを感じた。
 その紋章が示すもの。そして目の前にいる人々の様子。さきほど展開した光景。そこから推測されるものが正しければ、里珠は一番ひどい場所へ来てしまったのかもしれなかった。




 どれほどの時間が経っただろう。獅苑にとっては永遠に続くかと思われる時間だったが、息をつめて見守っていると、唐突に桜華が目を開いた。
 流れるような動作で右手を翻し、人差し指である場所を示す。それは竜の王国王都――つまりここだ。そこからゆっくり慎重に、何かを計るようにある方向へ指先を動かしていく。
「たぶん、ここだわ」
 ある一点を指差し、桜華は疲れ切った口調で言った。里珠を探して世界中に意識を飛ばしただけに、疲労も相当のものであるはずだ。
 方陣の外側へいた獅苑たちが、その場所を確かめるべく卓へ近寄り地図を覗いた。
 桜華の示す場所は、心配していたほど距離は遠くなかった。国としては隣の隣。

「……」
 一同口を噤んでしまう。世界の果てなどというものを思えば、近いものだ。だが、場所が悪すぎる。
「確かに、魔物の報告はされていない場所ね」
 呆然と呟いた桜華に、思わず姉だということも巫女だということも失念して、獅苑は声を荒らげていた。
「……っ、あそこは魔物より性質が悪いだろうっ!?」
 桜華がとらえた里珠の居場所。そこは、竜の王国ではセランと発音する国の領土だった。その国域のちょうどはずれに、里珠がいるらしい。
 確かに魔物が出現したという情報はない。しかし、里珠を危険にさらすものが魔物だけとは限らない。
「せめて、もう少し北側だったら……」
 うめき声のような悠那の言葉に、獅苑は全力で賛成したかった。

 里珠がいるのは国境となる深い森のそばで、それがもう少し北側、せめて森の反対側だったら、話はまだ簡単だったのだ。そちら側だったら、竜の王国の隣の国。大使が派遣されている国でもあるから、そこへ連絡し根回しをして人をやり、彼女を保護することも容易にできる。
 しかし。
 気を取り直したように天眞が顔を上げた。
「とりあえず、あちらに連絡をとっておこう。そう簡単ではないが、ここよりもいくらか情報は入りやすいはずだ。あとは……俺と外交官の腕の見せどころ、ということになるか」
 竜珠については、城に勤めるか王族を見たことがあれば、その存在くらいは知っている。しかし国外では一部の者以外ほとんど知らない機密事項だ。政略結婚を望む他国に対しては竜族の血のためとうまく立ち回っているが竜珠のことは伏せられている。
 つまり里珠が竜珠を持っているとしても保護されるわけではなく、場合によっては取引材料にも、王国の攻撃材料にもなりかねない。

 里珠の居場所はわかった。だが、今獅苑にできることは何もない。
 自分が行ける範囲なら、たとえ何があっても迎えに行こう。どれだけの魔物の中でも突破しよう。
 だがそれと同時に獅苑は守護神たる『龍神』であり、容易に動けぬ王族である。
 今すぐ駆け出したいもどかしさを抑え込むように、獅苑は拳を握りしめた。懇願をこめて、兄に向って礼をする。今頼れるのは、国同士のやり取りの力を持つ兄と、里珠の居所を探れる姉だけなのだ。




 セラン、と呼ばれる国。
 山脈に隔てられ、接する国わずかな道だけでとつながる国。貿易から発展したような街道はない。むしろ、その閉鎖性に周囲から警戒されている国だ。
 内乱と貧困、軍による支配が横行しているとも聞く。しかし外へ漏れる情報は統制され、内情がどうなっているのかも正確にはわからない。ただ、餓えに耐えかねた民が、山脈の合間の険しい峠や深い森を越えて国外逃亡を図ろうとすることも多いらしく、隣接した国には難民が流れているとも聞く。
 当然ながら竜の王国も自国の者を駐在させることもできていない。
 里珠が飛ばされてしまったのは、そんな国の中なのだった。


2008.11.8

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