竜の王国シリーズ

竜珠の在り処




 早く、ここから離れて。一刻も早く、身を隠さなくちゃ。
 そんなことを言われたような気がした。


 お触れ書きを眺め肩を落とした人々は虚ろな視線を交わしている。
 そこには何と書いてあるのだろう。里珠には全く読むことができなかった。一番良い方法は彼らに尋ねてみることだ。しかし、里珠のまったく理解できない言葉を話す彼らに、大陸全土でやり取りするための共通語で話しかけるのは何故だか躊躇われた。
 一人、二人とその場を離れていく。交わし合うのは、互いを探るような牽制するような冷たい目線。
 あまりここに長居はしない方がいいかもしれない。最後に一度だけお触れ書きを見上げ、その文章の中に数字が書かれているのを見つけた里珠はそう確信した。

 家々へと戻っていくだろう人たちの速度に合わせて、里珠は先ほど来た方向へ歩き出す。今すぐにでも全力で走りだしたい気分だったけれど、それではさすがに不審がられる。もし何か問い詰められたら、それで終わりだ。
 体が震えだしそうになるのをこらえて、ゆっくりと息を整えていく。魔物に囲まれることをついさっきまでは危惧していたのだけれど、むしろこちらの方が恐ろしい事態になっているのではないか。魔物退治はすっかり慣れきっていることだし、どんな相手にどんな風に対抗すればいいのかは、体が覚えている。
 明らかに、里珠の格好は目立つ。これほどまでに身なりのしっかりした者が誰もいないからだ。
 ただ、幸いなのはこの村がどうやらさまざまな人の集まりらしいということだった。里珠の村周辺でも少し離れた集落では装飾が違っていたり織りや縫い目が特徴的だったりと違いがある。よく見ると、周囲の人々の服装はばらばらだ。全く違う織り模様を持つ服装が混在している。
 つまり、集落全員が顔見知りという里珠の村とは状況が違う。さまざまな部族が流れ込んでいるため見知らぬ者同士、ということもあるのだろう。現に里珠の顔を見た数人が一瞬訝しげな顔をしたが、すぐに興味をなくして顔を背けていた。
 歩いていてわかったが、広場から離れて森の方へ向かっていくにつれて急場しのぎでつくられたような家が増えていくのだ。場合によっては布を敷いただけのところに寄せ集まる人もいるくらいで、どうやら流民たちが少しずつ森の方へ集落を広げていっているらしい。

 周囲の気配をうかがいながら、里珠は人目を避けるように家々の間に滑り込む。そのまま集落のはずれへと回り、森へと戻るつもりだった。
 集落の中心となるはずの広場から考えれば、この村は森の方へ向っていびつに広がっている。どうしてそんな状況になっているのか。森だって安全ではない。獣だっているし、場合によっては魔物がいるかもしれない。
 里珠の予想が正しければ、それは彼らが森へ行こうとしているから、ということになる。
 何故そんなことをしなければならないか――里珠は、歴史と地理の講義を思い返す。
 世界には様々な国がある。裕福な国、貧しい国。国の中で争っている国、他の国と争う国。歴史の長い国、新しい国。その中で、セランという国がある。
 他の国々との交流を断ち、国の中で部族同士が争い、そのために土地が荒れ、貧困にあえいでいるのだという国。しかし、交流がない故に、実際のところ国の中がどういうことになっているのかははっきりとわからない――。それが、セランについての説明だった。
 どうだろう、断言はできないけれど、かなりの確率で自分はセランにいるのではないか、と里珠は考えた。 となると、状況はまずい。他国と交流がないということは、最初に考えたように駐在する者のところへ駈け込むことはできない。さらに、里珠が竜の王国の、しかも王族に絡む人物だと知られることもまずい。それどころか、――この国から出られるかも、怪しくなってきた。

 里珠はぴたりと足を止めた。人の住む建物が途切れる、集落の境目に差し掛かっている。里珠が最初にいた森は目と鼻の先だ。それでも、ここを走っているうちに誰かに見とがめられたらどうなるか。
 もし捕まったら、二度と竜の王国へなんて戻れなくなる。
 人々が森へと集落を広げていくのは、森への距離を縮めるため。何故そんなことをするかと言うと、今里珠がしようとするように、見とがめられずに森へ入るため。
 見つからずに森へ入ろうとするのは、――きっとここから逃げるためだ。だからこそ、人々はこの集落へ集まってくるのだ。
 ここはきっとセランの国境付近なのだろう。
 さっき兵士らしき人に引き立てられていった男女。あのお触れ書きの数字。この状況から推察するに、あの人たちはそうして逃げ出そうとした人たちで、あの数字は、脱走者に対する罰金か、密告者に対する報酬なのに違いない。あれを見た人々が互いに視線を交わしたのは、たぶん互いに逃げないように牽制したのだと思う。
 派遣されている同族のところへ駈け込むとか、関所を抜けるという正攻法が使えない以上、里珠が取る方法はひとつ。この国を逃げ出そうとしている人々と同じ方法を取るしかない。つまり、この森を抜けてセランから出ることだけだ。
 本当は夜闇にまぎれた方が動きやすかっただろう。けれど、あと数時間滞在していてぼろが出る方がまずい。この国の民でないことが露見したら、もっと危険だ。

 里珠は、上着越しに竜珠に両手を重ねた。その熱を感じ取るように意識を集中しながら、心の中で強く祈る。
(無事に、獅苑様のところに戻れますように――)
 もう一度あたりに人気がないことを確認して、里珠は勢いよく飛び出した。とにかく一秒でも早く森に飛び込んで姿を隠さなくては。
 幸か不幸か、背後に声や物音は起こらない。どうか、誰も気づいていませんように。
 最後は身を投げ出すくらいの勢いで、里珠は思い切り茂みに向かって飛び込んだ。そのまま、息をひそめて様子をうかがう。
 遠くから何かざわめきが聞こえる、というようなことはない。枝に引っ掛けたところがひりひりするのを我慢しながら、里珠はそのまま静寂を待った。

(……たぶん、大丈夫だと思う)
 恐る恐る身を起して外をうかがう。少なくとも人影は見えない。幸運にも、目撃者はいなかったようだ。
 大きく息を吐いて、里珠は肩の力を抜いた。緊張のあまり激しく鼓動していた心臓が、少しずつ落ち着いていく。魔物の気配は感じない。もしあの兵士のような人たちが探しに入ってくるとしても、森の中だ。里珠にとっては慣れ親しんだ領分。身を隠す術には長けているつもりだから、あの集落にいた時よりずっとましだった。
 里珠は周辺の茂みを探る。隠しておいた槍を見つけ出して、なるべく森の奥へ進むのだ。どの方向に進むべきなのか分からないのが困るが、とりあえずあの集落と反対方向へ向かってみよう。
 森の外に見える景色と記憶を照合しながら、ゆっくりとあたりを探っていくと、やがて手に何かが当たった。里珠が隠しておいた槍は、何も変わりない状態でそこにある。
 これで一安心だ。とにかく最初目覚めた場所まで戻ってみることにする。問題はそこからどう進むかだが――。

 そこで里珠は視線を感じて振り返った。しかし、そこは森の中で誰もいるはずがない。
(……っ、まさか見張りとか捜索とか……)
 兵士が引っ立てていったあの二人が脱走者であるなら、森の中を探されることもあるかもしれない。そこに思いいたって、里珠は顔を青くした。
 だが、見ているだけでは何ともならない。里珠は思い切って視線を感じた奥の方へ進んでみることにする。
 勢いよく踏み込んだ向こうから、何か影が飛び出してきた。思わず槍を向けそうになって、里珠はその影の正体に目を瞬かせる。
「え……?」
 小さな影はふたつ。身長が里珠の腰あたりまでしかない男の子と、それよりさらに小さい女の子だった。
「子供?」
 兄妹なのか、男の子が女の子を背に庇い、女の子は男の子のマントの裾にしがみついている。二人とも膝まで楽に覆うようなマントを羽織っていた。明らかに旅装束だ。
 里珠はまじまじと二人を見る。この顔つきになんとなく見覚えがある――そして、それが先ほどの集落で見た、引き立てられていった男女を彷彿とさせるほどそっくりなのだということに気づいた。
「もしかして、さっきのは、お父さんとお母さん?」
 里珠の問いかけに兄妹らしき二人は怪訝な顔を見合わせる。うっかり竜の王国の言葉で話してしまったことに気づいて共通語で言い直したが、やっぱり二人ともこちらの言っていることが分からないようだった。
 どうやらこの子たちは共通語は使えないらしい。
 里珠の額に冷や汗が浮いた。互いの言葉がわからない。しかもそれを埋めるであろう共通語も通じないのでは、どうしたらいいだろう。

「……」
 女の子の方がぼそりと呟いて、じわりと涙をにじませる。言った単語は聞き取れなかったのだが、それでも彼女が何を言ったのか、里珠にはなんとなくわかった。たぶん彼女は、お父さんかお母さんと言ったのだ。
 あの集落での状況を知らせるべきか、そしてどうしたら伝えられるか。何ともしようがなくて、里珠は二人の傍へ近づいて、女の子の前にしゃがみこんだ。
 少し警戒の様子を見せる二人ににっこり笑いかけて、里珠はそっと女の子の頭を撫でてみる。これしか思いつかなかった。
 女の子の目からぽろぽろと涙がこぼれていく。緊張の糸が切れたのだろう。声を殺しながらぐすぐすと泣き出してしまう。里珠がちらりと隣を見ると、触発されてしまったのだろう、男の子もわずかに涙ぐんでいた。それでも泣かないところは立派だと思う。

 ふと思い立って、里珠は転がっている石を拾うと足元の土に単語を刻みつけた。竜の王国とこのセランの間にある国の言葉だ。もしかしたら通じるかもしれない。話せれば一番良かったのだが、少し自信がなかった。
 もし、この二人が国を脱しようとしていたのなら、あるいは隣国の言葉をひそかに学んでいるということもあるかもしれない。
『どうしてこんなところに二人だけでいるの?』
 その文章を見て、二人は理解を示す。どうやらこの言葉なら通じるようだ。これなら何とかやり取りができると里珠は安堵の息をついた。
 しゃべられても結局わからなかったので手間ではあったが筆談で会話し、里珠はようやく現状を知ることができた。


 ここはセランの国境近くで、あの集落はトラール、というらしい。
 セランは他国との国境を森や山脈に囲まれているため、他国へ出る方法は基本的には限られた関所を通るしかなく、事情によりそこを通れない者は山越えをするか森を抜けるか、ということになる。
 囁かれている通り、荒廃と貧困により人々は極度の状態に置かれており、町は難民であふれ、新天地を目指して隣国へ逃げようとする者も多いらしい。そして、この兄妹とその両親も、その一部だった。
 国を出る道筋というのは限られていて、必然的に人が集まってくる。セラールはそのひとつ。北に広がる森は広大だが、そこをうまく抜けられれば隣国に出られるのだった。
 ただし、今現在セランはほとんど軍により治められていて、脱走を試みる者はつかまり収容されてしまうことになっているのだという。人々が脱出を試みる場所は、時々大々的な捜索が行われて脱走者を根こそぎ捕まえて連行していくらしい。
 つまり、里珠はちょうどその場に居合わせたというわけだ。もしもう少し時間がずれているなりしていたら、里珠自身がつかまっていた可能性がある。
 この二人は両親が必死になって隠してくれたために、逃れることができたのだそうだ。
 里珠が両親が連れて行かれたことを教えると、二人とも泣いてしまった。それでも大声をあげないのは、そうすれば居場所が知られてしまうとわかっているからか。――男の子はともかく、女の子は十歳にもなっていないだろうに。
 推測した通り二人は兄妹で、兄はラエル、妹はミーナと名乗った。里珠にとっては若干発音しにくかったのだが、里珠という名前も兄妹にとっては発音しにくそうだったので、これはお互い様だろう。
 ラエルが地図を持っていて、今どこにいるのか、二人がどこに行くつもりだったのかを知ることができた。トラールからほぼ真北に進んでいくと、そのまま森を出て隣国に行くことができるらしい。方向についてはラエルが方位磁石を持っているので迷うことはない。
 この二人についていくと、里珠もうまく逃げることができそうだった。問題はラエルとミーナの両親が捕まってしまったように、兵士たちに見つからないかどうか、だ。


『森を抜けるのにどのくらいかかるの?』
 里珠の質問に、ラエルは眉を寄せて考え込んだ。しばらく逡巡した後に、地面に置いておいた石を取る。
『お父さんは、七日くらい耐えれば大丈夫だって、言ってた』
 夜は動けないだろう。明かりや灯をともせば居場所が知れてしまう。昼間でも、人がいる気配がするなら動かない方がいい。そう言ったことを考えたとしても相当な距離だろう。もし今が月が明るい時期なら、夜でももう少し進めるかもしれない。
『私も一緒に行ってもいいかな?』
 里珠の申し出に、兄妹は顔を見合わせる。どことなくほっとしたような様子だ。躊躇いがちに妹のミーナが地面に文字を書いた。
『お姉ちゃんは、どこからきたの』
 その質問に、里珠は苦笑する。さて何と説明したものか。少し考え込んでから、里珠は返事を土の上に記していく。
『ちょっと事情があって、この国に迷い込んでしまったの。少しでも早く元の国に帰らなくちゃいけないから』
 竜の王国に戻らなくちゃいけないのだということを説明すると、二人とも驚いたようだった。書くのも忘れて、声をそろえて何かを言う。里珠には半分くらいしか聞き取れなかったのだが、そんなに遠くの人なのかと驚いたのだろう。
 年上の存在はラエルとミーナに安堵を与えたらしく、里珠の同行を快く了解してくれた。


 日が沈む前に少しでも北上しよう。
 それがラエルと里珠の一致した見解だった。捜索隊が退いた後とはいえ、もう一度捜索をしないという保障はどこにもない。それに、こんな森の入口では、何よりトラールの住人に見つかる可能性もある。
 方位磁石を持つラエルが先頭、そこにミーナが続き、殿(しんがり)を里珠が務めることにした。兄妹二人の身長なら視界をふさがれることもないし、槍ならばそこそこ間合いも長い。それに何より二人を視界に入れておく方が里珠自身が安心できたのだ。
 周辺は森が生む音だけで、人が潜んでいたり動いていたりするような様子はない。ラエルの話では彼らの前後にも数人が森に入っていたというが、その人たちがどうなったかはわからないそうだ。集団で動く方が見つかりやすいから、それぞれ少人数で脱出を図ることが多いためらしい。
 里珠の胸にある竜珠は魔物の気配を教えてくれる。そして、獅苑の竜珠になることで強くなった感覚はあたりの気配を読みやすくするけれど、それでも不安はぬぐえなかった。
 森を抜けて隣国に行くまで、およそ七日。





 里珠――『龍神』の竜珠の不在。大きな声で語られることはなかったが、その事実は竜の王国の兵士たちに少なからず打撃を与えた。
 兵士や女官たちには行方不明だとだけ告げられている。巫女・桜華が懸命に占で探しているのだということも同時に伝えられているため、不安そうな表情は見せるものの、彼らは大丈夫だとどこかでほっとしていた。彼女がいれば、すぐに見つけ出されるだろうと思っているのだ。
 最初の竜珠の姫、悠那を見つけた時の桜華の功績を、皆知っているから。
 しかし、王族とごく一部にしか知らされていない事実もある。里珠の気配はどうやらセランにあり、そこから彼女を救いだすのは難航を極めそうだということ。
 隣国の大使と連絡を取り、何らかの情報を得ようと王が奔走しているところである。
 獅苑が直接できることは今のところなかったが、しかしのんびり療養をしている場合でもなかった。
 まるで里珠の不在が知られているかのように、そこを突くように王国内で魔物が現れ始めたのだ。別々の場所から同時に魔物退治の依頼が送られてくる始末で、獅苑は霞炎と打ち合わせながら、兵士たちをどのように派遣するか頭を悩ませていた。
 北西と南へ兵を派遣したかと思えばすぐに北から報告があって、再度隊を編成するはめになる。

 けが人の数などを整理しながら、獅苑は唸り声を上げた。
「……負傷者が多いな」
「ええ、魔物の強さと数が、以前よりも増えています。あまり分散させるのも厳しいですね」
 応じる霞炎の表情も、険しい。机の上に広げられた書類を睨みつけている。
 最近は里珠を囮に使った作戦で被害を最小に抑えてきたから、その慣れのせいだろう。霞炎に止められていたせいで獅苑が実際に出向いて指揮を執ることもなかったから、それも影響しているかもしれない。
 里珠の姿が消えて以降、自分の感覚と精神が明らかに精彩を欠いていることは獅苑にも自覚があったから、あえて霞炎の言葉を受け入れていたが、そんなことを言っている場合ではないかもしれない。むしろ、あるいは。
「これだけの魔物の数、……俺を引っ張り出すためだと思うか?」
「まさか、偶然でしょう――と言いたいところですが、里珠様が狙われていたことを考えればその可能性はありますね。もしかしたら、竜珠がないことがどれだけの効果となるか、確かめようとしているのかもしれませんが」
 長の一族の半身となるもの。しかも、魔物にとっては天敵の『龍神』の力を削げると知られれば、――それはつまり里珠の危険が増えることを意味する。
 獅苑は気持ちを切り替えるように呼吸を整えて、顔を上げた。控えている副官へ指示を出す。
「里珠がどうなるかは、場合によっては俺の振舞い次第ということだな。――次の部隊は俺が指揮を執る」
「わかりました。修(しゅう)を補佐につけますから、無理されませんよう」


 一年前――まだ里珠と出会う前は、どんな風にして戦っていただろうか。そんなに遠くはない過去の話のはずなのに、獅苑はそれを思い出す事が出来なかった。
 彼女が獅苑とともに魔物退治に赴くようになって、兵士たちの動きは完全に変わったのだ。里珠のたち振る舞いにより、自分たちが戦いやすいように魔物たちの動きを変えることができたから。この一年でそれに慣れきってしまった上に、その作戦が使えない今、苦戦は必至だった。
 とにかく、数が多い。しかも、ほんの二日のうちに多数の負傷者を出す羽目になっているから、こちら側の戦力も満足とはいえないのだ。
 獅苑とともに剣を振るう竜族たちもどこか剣筋が弱いが、それはきっと疲労のためだけではないだろう。
 竜珠の不在。それは長の一人である獅苑の力の喪失。ひいては竜族の象徴の喪失だ。竜珠だけではなく、里珠自身が兵を鼓舞していたということでもあるかもしれない。
 おそらくあの場に立ち会っていた兵であれば、誰もが里珠の無事を願っているはずだ。そして、獅苑のことを案じているだろう。それに応えるには――。

 獅苑は一歩前へ踏み出すと、澄んだ音とともに剣を翻した。迷いない剣は魔物を一匹両断し、そのまま姿勢を変えながら、傍にいたもう一体を切り倒す。
 一筆書きでもするかのように剣を躍らせながら、獅苑は戦場を駆け抜けた。空中から彼の飛竜が追いかけて獅苑を支援する。記憶は薄くなっても、体は覚えていた。これは、里珠がいなかった頃の獅苑の戦い方だった。
 周囲で歓声が上がる。獅苑の奮迅に鼓舞されたらしい竜族たちは負けじと魔物に突っ込んだ。
 獅苑は戦況をうかがう。魔物はその半数がすでに退治されていた。あともう少しだけの辛抱だ。獅苑がそう周囲に声をかけると、呼応するように返事が返ってきた。


 何とか魔物を全滅させ、こちら側の損害を確認する。怪我人はいるものの、ここ二日の中では最小限の被害にとどまったのは、やはり獅苑の存在の為だろう。
 先ほどまでの獅苑の戦いぶりに、兵士たちは口々に安堵の言葉を吐いた。
 ――里珠殿のことを心配していましたが、さすが『龍神』はお強い。剣に乱れがない。
 ――竜珠の不在にどうなる事かと思ったが、これならば一安心だ。あとは桜華様が里珠殿を見つけてくだされば……。
 それを聞いていた当の獅苑は、今すぐ嗤いだしたい気分になったが。
 士気が下がるようなことにならなくてよかったと、そう思っておくことにする。

 すべてを終わらせ、城へ戻り竜舎へ飛竜を連れてきた獅苑は、そのまま飛竜へもたれかかって倒れそうになった。なんとかここまで保ってきたが、早く部屋へ戻らないと、意識がもたない。
 戦うことはできる。前のように振舞うこともできる。なんでもないように『龍神』として闘ってみせることも、なんとかできるだろう。
 ただ、それには圧倒的な肉体と精神の疲労を伴うのだった。
 獅苑の奥底、竜族としての根源は、不在の竜珠を探そうとする。その行方を憂う。絶えることなく襲ってくる焦燥を理性で捩じ伏せて今迄のように振舞おうとすれば、それは結局のところ獅苑を疲弊させるのだ。
 この二日で、里珠について何の手がかりも得られていない。今はまだ何とかなるとしても、いつまで続けられるものか。
 獅苑はふらつく視界とぼんやりとしてきた意識をなんとかごまかしながら自室へと戻る。
 できれば少しでも休めればよかったのだが、そんな獅苑の思いを嘲笑うかのように魔物の襲撃は続く――次の日にはまた魔物退治へ赴かなくてはならなくなった。





 どうか、――上を見上げませんように。不自然さに気付きませんように。
 視界をふさぐほど葉が茂る木の中ほど。ちょうど太い枝の分かれ目に縮こまって、里珠はただそれだけを祈っていた。もうかれこれ一時間もこの姿勢のままだ。そしておそらくはさらに数時間、このままでいなければならないだろう。
 足元、というよりは森全体に広がる、森が生み出すのではない不自然な音。乱暴にやり取りをする声。何かを払うようなせわしない音。鎧なのだろう金属がこすれ合う嫌な音。
 一度遠ざかったとほっとしたら、三十分もしないうちに戻ってきた。いい加減お尻も痛くなってきたのだが、身動きした途端にその音に気づかれそうで、姿勢を変えることすらできない。
 あたりに茂る葉は、外から完全に里珠の姿を隠している。葉の隙間から地上の様子がうかがえるのは、里珠だからだ。ラエルとミーナは、今頃外の様子も分からず、どうしようもなくて震えているかもしれない。
 里珠はちらりと別の木の方へ視線を向けた。そちらの木の上には、里珠と同じように木の上で兄妹が息を殺して身を潜めているのだ。命綱の代わりに蔓草や二人が持っていた細綱で腰かけを作ってきたから、里珠よりは快適に座っているだろう。

 トラールにたどり着いた日から四日目。里珠たちは、ほとんど北上することができないでいた。
 危惧したとおり、セランの脱走者捜索隊は、ラエルたちの両親を捕まえるだけでは終わらなかったのだ。もしかしたら、兄妹の存在に気づかれたのかもしれない。
 感覚が鋭敏になっていたのが幸いした。直観と言うか、勘が冴えているのも幸いした。
 いやな予感を感じて木の上にあがると、その直後に兵士たちが近辺を捜索していく、ということが何度もあった。どうやら徹底的にあぶりだすつもりらしく、どこかから小さく悲鳴のようなものが聞こえることがあって、その度にミーナは身を縮こまらせていた。同じように脱走を図っていた誰かが兵に見つかり、連行されていくのに違いない。
 その絶叫が聞こえる度にラエルやミーナの表情が曇るのは、もしかしたら次は自分たちかも――と思うからだろう。
 昼間はその調子で兵から身を隠すために木の上にあがり、夜は夜で視界が利かずほとんど進めない。それを繰り返しているから、たいして奥へは入っていないはずなのだ。せめてもう少し北上できれば、兵士たちにおびえることも少なくなるはずなのだが。

 がしゃ、と金属のなる音が下で響く。里珠の背に悪寒が走った。
 できるだけ息をひそめて、体の重みで不自然に枝が揺れないように細心の注意を払って、里珠は周囲の気配に意識を集中した。
 いる。――すぐ近くに、誰かが。
 いくら葉で身を隠しても、下から見上げられたら、隠しきれない。人が潜んでいることがばれてしまう。
 しかも、隣の木にいる兄妹が気づかれたら、腰を木に結わえてあるから恰好の的だ――里珠は枝の上に一緒にあげておいた槍を見上げた。
 もしそのときは、自分が囮になるしかない。だって、あんな子供たちをおいて、自分だけが逃げ伸びるなんてできるはずがない。この竜珠が、重要な人物の命であって、それが一つの国にとって重要だということは、何よりわかっているつもりだけれど。
 胸の竜珠の前で手を組んで、里珠は祈るように身を縮こまらせた。近くにいるだろう兵が、木の下まで来ないことを願う。
 お願い、近づいてこないで。
(獅苑様。どうか護って――)





 誰かが、呼ぶ――
 強引に引き起こされるように意識が浮上する。獅苑は驚いたように目を開けた。
「……!?」
 遠くに見えた天井に、一瞬混乱する。それは、獅苑が見慣れた自室の天井。真昼間だというのに眠気に襲われ、小休止をしたことを思い出した。ようやく部屋へ戻り、毛布をかぶる余裕すらなく、そのまま寝台に倒れこんでしまったのだろう。冬ではないが、若干体が冷えている。
 今置かれている状況を確認して、獅苑はゆっくりと息をついた。
「っ、さっきのは……夢か……」
 誰かに呼ばれたような気がしたのだ。すぐに行かなければいけないような気がして、しかしそれは叶わないまま目が覚めた。精神的状況としては、現実と全く同じ状況なのだが。
 獅苑は乱暴に髪をかくと寝台から身を起こした。

 魔物退治から戻ってきたばかりだったのだ。現状の報告と、負傷者の把握、今後について話し合っている最中に限界が来た。幸いだったのは、そこにいたのは獅苑の事情を知る天眞と霞炎だったことか。
 とりあえず、兵士たちにも限界がきている、ということまでは話していた。
 怪我人が多すぎる。王妃である悠那が『癒しの光』を駆使して、治癒の魔法を使える者たちと頑張っているが、臨月も徐々に近づいている妊婦にあまり負担もかけられない。
 しかし、魔物の襲撃は、里珠が行方知れずとなってから四日目となっても、まったく沈静化しない。
 そう、四日目だ。里珠捜索の動きはほとんどない。桜華は疲労が戻ったらすぐにでも里珠捜索の術をもう一度行ってみると言ったが、まだ本調子ではないようだ。
 日に日にひどくなってくる焦燥。里珠が無事であると確認したのはすでに四日前だ。そのあとどうなったのかはまったくわからない。それが余計獅苑の不安を煽るのだ。
 昼間はほとんど魔物退治に駆け回っているというのに、夜は夜で眠れない。だから、こんな昼間に突然睡魔に襲われるのだ。
 祈る、というのは普段の獅苑からは考えられないことだったが、今はそうするしか方法がない。竜珠がその持ち主を護る力を持たないことが、とても恨めしかった。
(里珠、どうか無事で――)





 どれだけ経っただろう。いつの間に金属音が遠ざかっていったのかも、定かではない。けれど、あれだけざわめいていた森が、静まり返っていた。悲鳴も、森を荒らす音も、聞こえてこない。
 周囲がわずかに暗くなっている。黄昏。
 森の空気も乱れていないようだ。人の気配は、先ほどよりずっと薄くなっている気がする。
 槍を手に取ると、里珠は意を決して恐る恐る木から下りた。ここでもし兵が潜んでいたら終わりだが……誰かがいるような様子はない。
 日が暮れていた。夜の森はほとんど視界が利かない。だからこそ、森を出る時間も考えて捜索隊は引き上げていったに違いない。
 どうやら、今日も何とか逃げ伸びたようだ。
 力が入ってがちがちになっていた体が、ふっと緩む。里珠はその場にへたり込みたい気分になった。
 が、そんな場合ではない。まだ周囲が闇に沈むまでに時間がある。少しでも北に進むなら、今がいい機会だ。
 気合いを入れなおすと、里珠は隣の木にいるだろう兄妹の元へ向かった。



 竜の王国は、まだ遠い。


2008.11.16

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