竜の王国シリーズ

竜珠の在り処




 里珠は空を見上げた。といっても、あたりは高くそびえる樹ばかりなので、その隙間から覗く青空の切れ端程度しか見えないのだが。鬱蒼としていて周囲は暗い。それでも夜の暗さとは違うから、まだ進むこともできる。
 木が倒れ、わずかに視界が開けたところで三人は休息を取っていた。倒れた木の上に腰かけて息をつく。
 里珠の両隣で、それぞれラエルとミーナも似たような姿勢で休んでいた。

 昼夜の変化を数えて棒きれに印をつけておいたおかげで、暦がなくともどれだけの時間が経ったかは大まかに知ることができる。トラールから脱出の旅を始めて、ちょうど七日目だった。兄妹の父が、それだけ耐えれば大丈夫だと言った日数。
 しかし、どうやら彼が言ったような目的地まではまだまだ遠そうだ。
 兵士が去った後に木を下りた三人は必死で北上した。うまく切り抜けられたのだろう。五日目に入ってから兵士の気配はほとんどなく、昼間のほとんどを移動に使うことができたのだ。
 次に直面することになったのは、道の悪さだった。北に進めば進むほど、森は鬱蒼として少し進むにも時間がかかる。人の手が入っていないというのが明確で、意外と子供はすり抜けられても里珠が引っ掛かるはめになることが多い。腰にある短剣が随分と役に立った。
 ラエルもミーナも護身用と言うよりは伐採用の短剣を持たされていたようで、三人がかりで枝や蔦を切れば、何とか道をつくることができる。
 どうにもこうにも体が疲れて休みながらしか進めないのだが、それでも兄妹の表情は最初の頃よりずっと良かった。兵士に追われるという恐怖感がなくなったからだろう。まだ両親のことでうなされることもあるようだが、軽口をたたくことも増えてきた。
 
「……どこまで来たのかな」
 地図と方位磁石を持ってはいたが、今の自分たちがどのくらい進んできたのか見当がつかない。距離を把握できればいいのだが、里珠にはさっぱりわからなかった。ただ、兄妹の父が七日と判断したその理由は何だろう。
 里珠は腰に止めていた袋を開ける。中に入っている干し肉を取り出して三つに分けると、ひとつずつラエルとミーナに渡した。もうひとつの問題は、これが里珠の持っていた最後の食料ということだ。ラエルとミーナの荷物にも食料は入っていたが、彼らの父が言ったように、七日しのげる分しかなかったのだ。
 水だけはたくさんあるから最悪の事態ではないものの、今いるのが森の真ん中だったりすると先は長い。
 進むのをいったん止めて、木の実でも集めた方がいいだろうか、と里珠はぼんやり考えてみる。時期的に何かはあるはずだ。

 ついと左側の袖をひっぱられて里珠が振り向くと、ラエルが不思議そうな顔で里珠を見上げていた。その辺に転がっていた枝を拾うと地面に文を書き記していく。
『どうしたの?』
 里珠はラエルから枝を受け取ると、食べ物を探した方が良いかな、ということを地面に書いた。さらに横からミーナが手を出してきたので枝を渡すと、彼女も里珠の書いた隣に言葉を記していく。
『もっと進んでからは? ごはんなら我慢できる』
 なんとも切ない言葉だ。考えてみれば、貧困にあえぐセランならまともに食事ができないことなどごく普通だろう。自分のこれまでの生活との違いに愕然としながらも、里珠は頷いた。自分の腹の虫が鳴らなければいいなあと頭の隅で考えながら。
『そうだね。じゃあ、何か見つけたときは採ることにして、少しでも先に進もうか』
 そう書きつけ、三人の意思を統一してから里珠は立ち上がった。目指すは北だ。





 七日目になって、桜華がようやく復帰してきた。
「里珠のいる場所は大まかに特定できたのだから、次は最初ほど苦労はしないわ。もう少し頻繁に探せると思うの」
 とは桜華の発言である。再度占の準備が為されて、里珠捜索が開始されていた。今回は悠那だけが立ち合っている。獅苑は何をしているかというと、七日間続いている魔物の襲撃についての取りまとめだった。
 魔物の襲撃は最初に比べて頻度が落ちたものの、やはり間断なく続いていた。出るべき獅苑がここにいるのは、桜華が里珠の居場所を探し当てたときすぐに報告できるように、という天眞と霞炎の配慮に他ならない。
 あわただしく出陣し、そして負傷して帰ってくる兵士たちを思えば、先頭に出て戦うべきであることは分かっているが、せめて里珠が無事でいることだけでもわかれば少しは落ち着くかもしれないと思ったのだ。場合によっては里珠の存在が確認できないなどという最悪の事態もありうるのだが、その場合は獅苑だけでなく竜族全体の危機となる。

「殿下、少し休憩しましょう」
 獅苑の手元にある書類がさっぱり進んでいないことに気がついたのだろう、霞炎に声をかけられた。
 我に返り、獅苑は顔を上げる。
「……すまん、霞炎」
「お茶を持ってこさせますよ、少しは落ち着くでしょう」
 深く息を吐くと、獅苑は手に持っていたペンを机に置いた。
 日に日に集中力が欠けていくのが自分でも分かるのだ。
 魔物討伐へ赴くとき――兵の前に出るときはなんとか平静を保っていられるが、こうして執務室へ戻るとそのしわ寄せが確実に来る。むしろ士気が下がらないために殊更以前のように振舞って見せるからその分余計にだ。
 それを見る者には、「竜珠が欠けてはいけない」ということの重要性は痛いほど伝わるだろうけれど。
 獅苑自身は、自分の半身である竜珠の居場所を把握できるわけではない。それは竜王である天眞も同じで、だからこそ悠那の姿が見えないと騒ぎになる。
 里珠が今どこにいるのか、無事でいるのかすら分からないこの状況が獅苑に与える負担は、力の要でもあり命にすら関わる竜珠のことも考えても相当なものだ。
 だが自分が倒れればその影響は多大だ、それは自分の立場上許されないし、今はここにいない里珠も望みはしないだろう。その気持ちだけが、何とか獅苑を踏みとどまらせている。
 女官が運んでくれたお茶を飲んで息をつく。時々里珠が自らお茶を入れて届けてくれることがあったことを思い出して一瞬気分が落ち込みかけたが、霞炎の手前なんでもないふりをしておいた。
 
 湯のみが空になる頃、執務室の扉が叩かれた。誰何するとそこにいるのは桜華と悠那だという。
 獅苑は思わず霞炎と顔を見合わせた。ここに二人がいるということは、占はすでに終わったのだろう。前回里珠を探したときの半分ほどの時間しか過ぎていない。
 応じて扉を開けると、もどかしいとばかりに桜華と悠那が入ってきた。そんなに暗い表情はしていないことに獅苑は安堵する。
 桜華は地図を持っていたので、書類を広げていた机を片付け、その上に地図を広げる。セランに接する森のところに、書きくわえたのであろう印が付いている。桜華はそこを指で示した。
「竜珠の気配は確かにここにあったわ。里珠はまだここにいるのでしょう」
 獅苑と霞炎は桜華の示した場所を覗く。最初に里珠がいると言われたところと同じだ。
 ――まだ、無事だ。
 その事実は獅苑にわずかな安堵をもたらした。獅苑を動揺させる焦燥のうち、彼女の無事を確認できないという部分だけはかき消える。寄せる波のようにそれはすぐに戻ってくるものなのだろうけれど。

 不安をぬぐい去るように獅苑は顔をあげ、目の前の桜華の様子に眉を寄せた。
「姉上?」
「いえ……なんとなく、最初にいた位置から動いているような気がするものだから」
 訝しげな表情のまま桜華が答える。気のせいかと思うくらい少しなのだけれど、と彼女は続けた。
 それに応じて獅苑は地図に再度目を落とす。セラン近くの詳細な地図はなかったから、最初に使った世界地図をそのまま使っている。確かに期待を込めて見れば、桜華の指は最初の占のときよりも若干森の中央に寄った位置を指しているようにも思われた。
「もし動いているのが本当なら、セランを出ようとしているのかもしれないと、桜華様と話していたの」
 獅苑が口にしなかった言葉を代わりに引き継ぐかのように悠那が言う。獅苑は何も返答できなかったが、霞炎が応じた。
「そうですね。里珠様なら、そこがセランだとわかれば、何らかの対応を取るでしょうから」
 そうなのかもしれない、そうではないのかもしれない。
 西南地域、里珠の故郷の森で彼女が魔物退治を一人で行っていたことを思い出す。森は彼女の得意とする領域でもある。非常用の携帯袋を持ちたいと彼女が言ったときにそれを許可したことが幸いした。今頃早速役に立っているかもしれない。
 ただ、そう思うと同時に、別の想像も頭をもたげてきて獅苑を苛む。実際彼女は自らの意思で動けない状態かもしれない。正確に言えば桜華が探すことができるのは里珠そのものではなく里珠の持つ『竜珠』であるから、その気配が探れることがすなわち里珠の無事を意味するわけではない。
 そこまで考えて、さらなる焦燥がわき起こりそうになり獅苑は慌てて思念を振り払う。
「なるべくこまめに探してみましょう。この地図に印をつけていけば、移動しているかがわかるでしょう」
 それには数日間隔の捜索が必要になる。結果が分かるにはさらに数日を待たなければならないのだ。
 獅苑は窓の外を見た。里珠がいなくなってから、憎らしいほど天気が続いている。だからなのか、魔物の襲撃も順調だ。
 行けるものならば、何を差し置いたとしても里珠を助けに向かうのだが――自分の立場がひどく恨めしかった。





 この森は、どこまで続くのだろう。切り開いてもその先には同じような光景が広がるばかりだ。もしかしたら自分たちは同じところをぐるぐると彷徨ったりしているのではないかと、そう思いそうになる。
 振り返れば、自分たちが必死になって作った道が確かに後ろに続いているから、それだけが前進していることの証明だった。方位磁石があるのが幸いだ。今のところ着実に北上しているのだとラエルが教えてくれた。
 意思疎通のためには筆談しかないから、移動中はほとんど里珠は兄妹と話さない。しかし、ラエルとミーナの会話すら最近は聞こえなくなっている。ちらりと様子をうかがうと、二人とも疲れた顔で短剣を振るっていた。
 三人とも同じような気分なのかもしれないと里珠は思った。これほどまでに先が見えないと、嫌な想像だけ巡るものだ。その最たるものは、実は自分たちはほとんど北上できていなくて、少し戻ればあの十日前に出発したトラールが目の前に見えてしまうという――。
 それを思うとあっという間に絶望に落ち込みそうで、里珠はそれを断ち切るように思考を無理やり別の方へ向けてみた。

(十日も獅苑様の顔を見てないなんて、久し振り)
 故郷である西封の村から王都へ来て、一年くらいになる。獅苑と出会ってからの時間も、そのくらいだ。竜珠を受け、獅苑の妃になる者として城に住むようになってから、獅苑と顔を合わせなかった日などない。
 魔物退治で獅苑が城を空けることがあったとしても、毎回里珠もそれに同行するのだから、やはりほぼ一緒にいると言って過言ではない。
(あ、でも、最初に会ったときは……)
 記念すべき、とも言える出来事を思い出して、里珠は目の前の枝を切り落としながらかすかに笑った。道をつくるには里珠が前に出ていた方がいいということで彼女が先頭に立っているから、兄妹たちに表情が見られないのは幸いだ。もし見られていたら、何事だと思われただろう。
 越境してもかまわないように王都で手続きをしてくるのだと獅苑は一度帰って行った。すぐに戻ると言っていたのに十日経っても姿を現さない獅苑のことを考えて、ずいぶん落ち着かなかったものだ。
 早く、竜の王国へ帰りたい。こっぴどく怒られるかもしれないけれど、獅苑の姿が見たかった。
 勢いよくふるった剣先が視界を塞いでいた蔦を切り落とす。少し向こうに開けた空間があるのが見えた。もしかしたら、倒木か何かあるかもしれない。
 しかも、少し離れたところからかすかな水音も聞こえてくる。小川でもあるなら、水を汲むこともできるだろう。
 ようやく一息つけそうだ。


 里珠が見つけたのはちょうど倒木によって開かれた場所だった。里珠が音を拾った通り、少しだけ歩けば沢があったので、ラエルとミーナの持っている水筒に水を汲むことができた。それぞれ十分に水を飲んで倒木のところへ戻る。
 三人それぞれ思い思いのところに座って息をついた。呼吸が落ち着いたところで道中採ってきた木の実などを広げて食事にする。すでに周囲の明るさで昼夜を判断する以外時間を判断できないから、休めるところで食事にするといつの間にか決まってしまった。
 森の中は枝も蔓も茂っていて進むには楽ではないが思ったよりも豊穣で、こだわらなければ食べ物は豊富にあった。どれが食べられるのかという知識は里珠の得意技だ。彼女の知っている森とは若干違うが、木の実類なら見分けられる。
 足元にきのこもあるにはあったのだが、火は使えないし生で食べるのも躊躇われるので諦めた。

 空腹が満たされてきたら人心地がついたのだろう、ラエルもミーナも歩いていた時より表情がよくなっている。
 ふとラエルが思い出したように里珠に話しかけてきた――相変わらず筆談なのだが。
『竜の王国って、どんなところ?』
「え、……えーとね……」
 まだ自由自在に使えない言葉で、どんな風に説明したらいいだろう。里珠は悩みながら枝を手に取った。

 ――古い種族である竜族が王となって治める国。
 大きな街道が通っていて、人や物がたくさん出入りする。比較的温暖で、豪雨や干ばつはほとんどない。
 時々魔物が現れて人々を苦しめることがあるけれど、そんなときは竜族たちが助けてくれる……。

 四苦八苦しながらの里珠の説明に、ラエルとミーナは興味を持ったようだった。次々と質問を投げかけてくるため、里珠はさらに悪戦苦闘しながら答える羽目になる。
『食べ物がなくて困ることはない?』
『それはないかな。でも何十年に何回かはあるんだって。そんなときは、やっぱり王様たちが助けてくれるのよ』
『戦とかもないんだね?』
『国の中で争ったりはしてないよ。でも魔物がたくさんいるから、戦いがないわけじゃないけど……。ほかの国とはもちろん戦争はしてないからね』
 二人が生まれ育ったセランとは全く違うだろう。それぞれが憧れのような目を向けるのが、里珠には何となく誇らしかった。

『里珠は竜の王国から来たんだよね。みんな心配してるだろうね』
 ラエルの書いた言葉に、里珠は胸が痛むのを自覚した。
 そうなのだ。もう十日も経っている。結婚式も目前に控えていた、王族の婚約者。探されていないはずがない――と思う。
 しかも、ただの婚約者ではないのだ。すでにその身には竜珠を受けている、『龍神』の竜珠の姫。長の一族にとって竜珠がどれほど重要なものなのか獅苑から何度も聞いている。長の半身。それが行方不明になることがどれだけ竜族にとって致命的かよくわかっていた。
『うん。だから早く帰らなくちゃいけないの。待っている人もいるから』
『その人も探してくれてるよね』
 ミーナの言葉に里珠は頷いた。探してくれている。そう思いたい。けれど、こんなところにいるだなんてどうやって知るのだろう。それに万が一わかったとしても、獅苑がここまで来れないことは分かっている。
『でもね。その人は、竜の王国から出られない立場の人なの。だから会いたかったら私から行かなくちゃ駄目なんだよ』
 里珠の書いた文章に、二人はきょとんとした。その姿がおかしくて、なんだか笑えてくる。竜珠の存在をあまり知られてはいけないかもしれないけれど、この子たちになら教えてもいいんじゃないかなとそんな気がしてきた。――もちろん、本当に教えることはできないけれど。
『私を待っててくれる人は、国を護らなくちゃいけないから、そこを離れることはできないの。だから自分の力で帰らなくちゃね』
 獅苑の立場は分かっているつもりだ。何を差し置いても迎えに来てだなんて言うつもりもない。魔物から国を護る彼のことを誇りに思っているから、その隣に並びたてるように頑張りたいと思うのだ。
『……里珠、悪い人にでもさらわれたの?』
 ミーナは悲しげな表情でそう書いた。
 里珠は苦笑してしまう。そう思うのも当然かもしれない。
『うん、そんなところかな。だから、頑張って森を出ようね』





 隣国の大使館へ、数名の竜騎兵が派遣された。魔物の襲撃が止まないこの時期に人を割くのはとても厳しいが、彼らでなくてはならなかったのだ。里珠の顔を知っていて、探すことができるのは、城に勤めるかともに魔物退治をした者だけだからだ。
 幸いと言うべきか、隣国にも魔物の出現が多くなってきており、その調査と討伐を目的として兵を派遣する――というのが表向きの形だ。その兵たちに課せられたもうひとつの使命が里珠捜索ということになる。
 天眞の手腕は大したもので、隣国の魔物の数が多ければ、さらに精鋭部隊を送り込む手筈まで取り付けてしまっている。その筆頭が『龍神』だが、それにはまた少し時間がかかるだろう。何より、竜の王国内だけでも手いっぱいになってきている。

 その日、獅苑は竜舎にいた。久しぶりの休息というか、今日だけは珍しく魔物出現の報告がなく、兵士たちもみな休んでいる状態だった。といっても気を抜けばいつ何時報告が上がるか分かったものではないから、準備だけは怠ることができない。
 休みのない出撃に飛竜たちも疲労の色が濃い。ようやく得られた時間に、惰眠をむさぼっている竜が多かった。
 獅苑は竜舎の一番奥、自分の飛竜が休んでいる一角にいた。他の飛竜より疲労が顕著なのは、主である獅苑の精神状態に呼応しているのと、竜珠である里珠の不在のためだろう。初めて彼女に会ったときからこの飛竜は里珠のことがお気に入りだったから――まるで獅苑の代わりのように素直に感情を表す。
「もう十日も経っているな……」
 今日も桜華は里珠捜索を行っているはずだ。何かあれば知らせてくれるだろうとは思うが、今回も獅苑は立ち会わず、飛竜の手入れに来ていたのだった。黙ってその場で結果を待っているよりは、何かしていた方がましだ、ということなのだ。
「おまえも、寂しいだろう?」
 獅苑は目の前の飛竜に声をかけた。かすかに鼻を鳴らす音がして、獅苑は苦笑する。実際のところ里珠の喪失という事実を同じように感じ取れるのは、この飛竜だけなのだ。
「長の一族というのも、厄介なものだ」
 たった一人の存在の有無で、ここまで影響されてしまう。
 それが自分の中で生み出されるまでは、竜珠がなくとも困ることはなかった。これほどまでに精神状態を左右される事柄もなかった。――それでも出会わなければよかったなどとは、全く思わないのだが。
 天眞はあれこれ動いているが、『龍神』が隣国へ出るというのはまず難しいだろう。すでに赴いた竜族たちに託すしかないというのも、歯がゆいものである。

 飛竜の毛並みを手入れしていると、竜舎の外が騒がしくなってきた。
「獅苑様ー! そちらにいらっしゃいますかー!」
 大声を張り上げて獅苑を呼んでいるのが悠那だと気づき、獅苑は急いで竜舎を出る。相変わらず振る舞いが王族らしくないと苦笑したが、それが悪いとは思わない。
 悠那は獅苑を認めると、表情を明るくして持っていた紙を勢いよく両手で振った。その後ろに楽しそうに笑う桜華の姿もある。
「獅苑様! 吉報ですよ!」
 彼女の手にあるのが世界地図だとわかる前に、悠那ははしゃいだ様子でこちらへ駆けてくる。獅苑が慌て注意するのと、桜華が苦笑するのは同時だった。
「里珠はやはりセランを出ようとしていたようですよ」
 悠那が差し出してきた世界地図の一部に、数か所の印が付けられている。やっと悠那に追いついた桜華が、補足するように言った。
「この印を見てちょうだい」
 獅苑が促された通りに地図上のセランのところを見ると、森の部分に印がふたつある。
「この間より北にずれているわ。最初の頃から比較すれば、ほぼ森を縦断したことになる。もしこのまま北上すれば、あと数日もしないうちに森を抜けられる」
 つまり、セランから隣国へ抜けたということだ。そちらへ来てしまえば、どうにかなる。竜騎兵も数名派遣しているから、彼らが里珠を見つけるのが先か、里珠が何らかの方法を持って竜族へ接触するのが先か。
 すっと、獅苑の肩から力が抜けた。安堵が獅苑の心を満たしていく。
 国をまたいで動いているということは、彼女が何者かに捕まっているという可能性は低いとみてもいいだろう。

「森を抜けたらもう大丈夫でしょう。ひとつ心配なのは、今度は魔物と会うかもしれないってことなのだけれど……」
「でも、桜華様。里珠なら大丈夫だと思うんですよ。私だって一人で何とか逃げ続けられたのだもの、私より強い里珠なら、魔物と出会っても負けたりしないんじゃないかってそんな気がするんです」
 悠那は里珠を高く評価しているらしい。まだ安心できるわけではないのに、自信たっぷりの悠那の言い方に、獅苑は笑うしかなかった。
(笑い事じゃないんだがな――)
 魔物相手なら、里珠だったらそうそう負けることはないだろう。悠那のその言葉には全く賛成だ。魔物の上に飛び乗るは、二匹をどうにか相手にしようとするは、結構なところを見てしまっている。もっとも、木の上に追い詰められていたあの状況が再現されたとしたら笑うどころではないのだが。
 話し込んでいた二人がこちらを見て唖然とするをみて、獅苑は思わずいぶかしげな表情を返す。
「――獅苑様も安心しましたか?」
「久しぶりね、獅苑が笑うのを見るのは」
 言われてみれば確かに久しぶりだろう。獅苑の変化に、悠那も桜華も安堵したようだった。





 それから二日ほど歩き続けて、あたりの森の様子が変わった。人の手が入った跡が、所々に見えてきたのだ。少しずつ、森を切り開く頻度が少なくなっていく。これはきっと森の出口へ近づいているに違いないと確信し、里珠たちは俄然張り切りだした。
 余裕が出てくると、気分も違う。里珠はようやく会話ができるようになろうと思うことができたのだ。
 休息をとるときはなるべく筆談をせずに会話を試みる。単語を間違えたり、変な言い間違いをしてラエルとミーナを大笑いさせてしまうことの方が多く、里珠としてはばつが悪いのだが、兄妹の表情が格段に明るくなるので、まあいいかと思うことした。
 おかげでいくらか簡単な内容であればやり取りできるようになったし、ラエルとミーナの会話も聞き取れるようになった。
「逆に里珠の悪口言ってたらばれるようになっちゃったね」
「! そんな話してたのっ?」
 飄々と言ったラエルに思わず里珠がしかめ面をすると、彼は思い切り噴き出して楽しそうに笑う。
 徐々に歩いていくうちに、足もとが踏み固められたものになっていく。森で採取をする人たちが付けた道だろう。ということは、そんなに遠くないところで森から出られるのではないか。
 森を抜けさえすれば、こちらの勝ちだ。ラエルもミーナも、亡命成功ということになる。はやる気持ちを抑えて、ラエルに方角を確認しながら、里珠たちは森を進んでいった。
 木々の間隔が大きくなってくる。遠く先が見えやすくなり、少しずつ視界が開けていって、ついに木々の広がりが途切れた。

「……着いたぁ!」


2008.11.25

Index ←Back Next→
Page Top