竜の王国シリーズ

竜珠の守護者たち




 目出度きことは続くもの、とは誰が言った言葉だったか。
 王弟の婚約、国王妃の懐妊と慶事が続くというにもかかわらず、国内は魔物が跋扈し、そのために『龍神』とその伴侶との婚姻も先送りになってからしばらく経つ。
 少し前の出来事が嘘のように、竜の王国の王城は寿ぎの言葉で溢れかえっていた。


 国王妃・悠那の私室。
「わぁ……!」
 籐で編まれた籠を覗き込んで、ラエルとミーナは感嘆の声を上げる。里珠もその声に応じるように一緒になって覗き込むと、そこには小さな赤子の姿がある。小さな小さな目が思い切り開かれて、興味深げに覗き込む三人を見返していた。わずかな手の動きを見て、里珠はかつて西封村で友人の姉の赤ん坊を見せてもらったことを思い出す。
「ちっちゃいね」
 ミーナは感激しているのか頬を赤くして隣の寝台に腰掛ける悠那に話しかけた。すっかり竜の王国の言葉も覚えてしまい、何の苦もなく王城の者と話すようになっている彼女である。いつの間にか悠那にも慣れ、赤ん坊を見るのを楽しみにしていたのだ。
 産後の心配もされた悠那だが、部屋からは出ないものの元気な様子で、今も複雑そうな表情をしているラエルに穏やかな笑顔を向けている。
「どうしたの、ラエル」
 ラエルは思い切り首をひねり眉をしかめて何かを一生懸命考え込んでいる様子で、しばらく悠那と里珠が待っていると意を決したように口を開いた。
「……これが赤ちゃんなの?」
「そう、生まれたときはみんなこんなくしゃくしゃな顔をしているのよ」
 猿みたい、とはよく言ったものだ。かつて里珠が赤ん坊を見たときも若干思ったのだから、彼がそう思うのも無理はないかもしれない。
 悠那は楽しそうに破顔して、二人の兄妹にむかって言った。
「指を出してごらんなさい。握手してくれるわよ」
 ラエルとミーナはその言葉に不思議そうに、恐る恐る赤子に向かって手を伸ばす。ともに指をつかまれて、歓声が上がった。
 はしゃぐ二人を見守りながら、悠那は里珠に目を向けた。

「準備は進んでいるのかしら」
「はい。何事もなければ、一月後には」
「ずいぶん延びたものね。私も調子が悪かったから、申し訳なかったわ」
「いいえ、そんなことありません。――陛下も獅苑様もなんだか慌てていて面白かったです」
 里珠が笑顔で答えると、堪えきれないとばかりに悠那が噴き出す。臨月が近くなってから、仮にも竜族の長たるあの兄弟が悠那の扱いに困り奇妙な振る舞いをして、事あるごとに侍女頭の紫綺(しき)に叱り飛ばされていたのだ。横で見ていた彼女たちは実に楽しませてもらった、というところである。
 これで一生からかわれるんだよね、とはラエルの台詞だ。彼の父親も似たようなことをしてそれをずっと母親に言われ続けていたらしい。
「今度は何事もないと良いわね」
 悠那の言葉に里珠は頷いた。
「今日は今から部屋の引っ越しなんです」
「ああ、そういえばそんなことを言っていたわね」
 一月後に控えているのは以前里珠の行方不明騒動で延期にされた、獅苑と里珠の結婚式である。魔物の件と『守護の女神』の件で様々議論はあったのだが、当初の予定通り執り行われることになった。
 準備そのものは一度途中まで進められてはいたから、さほどではない。
 今日の『引っ越し』――今まで婚約者であった里珠は、本来妃が入るべき場所とは別の棟に居室を置いていた。それを結婚式を控えて本来の場所へ移動するのだ。王弟の妃がいるべき部屋――獅苑の私室の隣。
「それなら部屋が近くなるわね。行き来がしやすくなるわ、楽しみ」
「ただ、ラエルやミーナとは少し遠くなってしまうんですけど……」
「そうね、それは仕方がないわね……」
 里珠がほんの少し表情を曇らせて言うと、悠那も応じてわずかに考え込む様子を見せる。

 長の一族が住まうこの棟は王城の中の最奥で、最も警備が厳重になされているところだ。基本的に長の一族と竜族や仕官する者の中でも高位の者しか入れない。
 ラエルとミーナはもともとセランからの亡命者ということになっているから、本来は入れない。今こうして悠那の赤ん坊を見に来れたのは、里珠が一緒であるうえに国王と王弟の許可があるからだ。完全に獅苑と里珠を慕っていて、子供であるといえどもやはり大事は取らなければならない。手続きが終わるまで会いに行くのを我慢して、ようやく今日来られたというわけである。
「仕方ないとは思うけれど、それだけ私たちの持っているものが大切ってことですものね」
 竜珠が失われることの危険性は、この間の獅苑の振る舞いで証明されてしまった。だからなのだろう、警護の兵士も増えた、とは悠那の話だ。王城には結界が張られ、あらゆるものの侵入を拒むようにはされているが、やはり不安は残る。
「そうですね。昼間ならこちらから会いに行けばいいんですし」
「ええ。もう少し落ち着いたら私も外に出られるようになるから、お茶会でもしましょうね」
 悠那の提案に里珠は笑顔で応じた。



 部屋を移るということは、獅苑の部屋との距離が近づくということだ。今まで里珠がいた棟は獅苑の執務室はおろか私室からも遠かった。
 竜珠も得て正式に婚約者であるというのにそんな場所に部屋があることについて、里珠はあまり深く考えずにいた。王族というのはそういうものなのか、程度に思っていたのだが、悠那と桜華にあっさり笑い飛ばされたのだ。
 曰く、獅苑言うところの『年寄り』連中の要らぬ計らい、というわけである。彼らもさすがに兄王の一件で思うところがあったようで、今回はいつの間にか竜珠の力が強くなっていました、というのは避けたいらしいのだ。
『兄のとばっちりが全部弟のところに行くわけね』
 桜華の心底楽しそうな笑い顔を里珠はそのとき初めて見た。

 それはともかく、里珠が距離の近さを実感したのは、いつもよりかなり早い時間に獅苑が里珠のもとを訪れたからである。ただし、獅苑の部屋に続いている扉からではなく、廊下からだった。
 里珠が相手を確認してから扉をあけると、いつもの柔らかい笑顔がのぞく。
「新しい部屋はどうだ?」
「えーっと、広いですね?」
 首を傾けながら里珠が答えると、獅苑はかすかに表情を和らげた。
 実際、今まで使っていた部屋の倍はあるのだ。持ち込んだ荷物を納めても、収納に明らかな余裕がある。昨日までの部屋だって、西封村ではめったにお目にかかれない広さと調度であったというのに。それでも長の一族自体があまり派手を好まないから質素に抑えられてはいるのだという。事実、国外からの客を招くための棟は里珠が目を回すかと思うほど豪奢な作りだったのだ。

 里珠が部屋へ招き入れると、獅苑は一瞬だけ躊躇してから入ってきた。その手には茶器の乗った盆を持っている。
「たまには俺が入れよう。里珠は座って待っているといい」
 返す暇もなくテーブルへ誘導され、里珠はおとなしく席に着いた。いつもは里珠が用意するのだが、予想外に早い訪ないだったために間に合わなかったのだ。獅苑がお茶を入れるのを見るのは、実はこれが初めてだった。
 ――そうなのだ。食事を共にするときと、こうした夜のちょっとした時間と、魔物退治。それ以外で獅苑に接する機会は、婚約者であるくせに極端に少なかったのだ。それをさびしいとも思うし、仕方ないことだとも思っていた。その理由は悠那と桜華が笑いながら暴露してくれたことからわかっている。
 竜の一族は、里珠を認めていないわけではない。否、獅苑の立ち振る舞いから彼女が獅苑の竜珠の姫であると認めているからこそ、獅苑と里珠に距離を置かせるのである。少なくとも不注意で里珠が行方不明になったことは、獅苑と彼女の格を下げる理由にはならなかった――むしろその溺愛ぶりが表沙汰になったので、獅苑が大変にからかわれることになったようであるが。
 獅苑は慣れた動作で茶を注ぎ、里珠の前に置いた。その動きひとつひとつが無駄なく洗練されていて、里珠は思わず見惚れてしまう。
「里珠?」
 不思議そうな声で我に返り、里珠は慌てて前を見直す。固まってしまった里珠を、獅苑は怪訝そうに見下ろしていた。
「獅苑様、よく自分でお茶を入れるんですか?」
「昔よく入れさせられた。紫綺(しき)と姉上にだいぶ鍛えられたぞ。一応飲める味だそうだ」
 今は里珠が持ってきてくれるからな、とふわりと笑われて、里珠は言葉を飲み込む。困ったなあ、と頭の中で思った。
 今までと違う部屋のせいだろうか、いつもと獅苑の表情が違う気がして、里珠は戸惑う。たとえば昼間執務室へ休憩のお茶を入れに行って、礼を言われたときと似ている気もするけれど、決定的に違う気もする。
 結論を言うと――心臓にひどく悪い。前の部屋であっても不意の接触でどきどきさせられたというのに、もしかするとここだと、獅苑と一緒にいるだけでどきどきするのか。
 二人分のお茶を入れ終えて、獅苑は里珠の向かいに用意された椅子に座る。里珠はとりあえず思考にふたをすることにして、目の前に置かれたカップをそっと持ち上げた。侍女のいる前では作法に気を使うけれど、獅苑といるときは気にしないことにしている。
 そっと一口のみこんで、里珠は目を瞬かせた。普段里珠が獅苑のために使う茶葉と同じもののはずなのに、今まで飲んだことのないような甘い味がする。
「あ、おいしい」
 顔をあげると、少しだけ不安そうな表情をした獅苑の視線とぶつかった。
「口に合うか」
「はい。とってもおいしいです」
 初めて飲む味だが、不思議なくらい里珠の舌に合う。悠那とのお茶会で入れても、今までこんな甘いお茶になったことはなかった。
 里珠が答えると、獅苑は目を細めて穏やかな笑みを浮かべる。部屋の明かりのせいなのか、ひどく目が惹かれて仕方ない。
「こんなに甘いお茶、初めて飲みました。砂糖も入れていないのに」
「それならよかった」
 安堵したように獅苑もカップを手に取った。寛いでいるというのに所作が美しいのは幼い頃からの教育の賜物なのだろう。剣を持ち戦場を駆けているときと印象が違うが、やはり王族なのだと思う。
 しんと静まり返った部屋に、茶器の触れあう音と二人の声だけが響く。昨日まで里珠がいた棟はいろいろな物音や遠くの喧騒が耳に届いていたのに、やはり城の最奥とは違うのだ。

 いつものお茶の時間が終わり、獅苑が席を立つ。茶器一式を片付けるのは明日の朝にすることにして里珠が見送ろうと立ち上がると、獅苑は躊躇なく廊下へ続く扉へと向かった。
「獅苑様、そちらからお戻りですか?」
 廊下へ出て向こうの扉から入るより、内扉を抜けた方が早いような気がして、里珠はそう声をかける。振り返った獅苑は、微妙に困ったような顔をしていた。
「……そっちは、妃に逢いに行くときに使うものだ。今はまだ、使わない」
 なんと返してよいかわからず、里珠はそのまま部屋を出て行く獅苑を見送る羽目になる。間をおかず隣の扉をあける音がして、里珠は我に返った。
 隣の部屋に、獅苑。恐る恐る内扉に近付いて、里珠はそっと手を触れてみる。これは長の一族とその妃の部屋をつなぐもの。使う用途はおおむね限られるわけで、ここを通るときというのは。
(な、なんか今更ながら恥ずかしくなってきた……!)
 もしかすると自分は結構な台詞を吐いていたのではないのか。時間差で頬が熱くなってきて、里珠は気を散らすように首を振る。そのまま音をたてないようにそっと獅苑の部屋へと続く扉へ額をぶつけた。
 ひんやりとした扉の感触を味わいながら、里珠はすぐ近くにいるであろう獅苑の気配を探ってみる。明確に感じ取れるわけではないのだが、この竜珠のおかげなのだろう、すぐそこに『いる』ことはわかるのだ。竜族や飛竜に竜珠が力をもたらすのと同じように、やはり竜珠も近くに同族がいる方が落ち着くらしい。それが竜珠の主となれば格段に気持ちが安定する。
 これからはずっと、こんなに近くだ。なんとなく嬉しくなって、里珠はしばらくそうしていた。


2009.12.21

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