竜の王国シリーズ

竜珠の守護者たち




 里珠が棟を移り、ラエルとミーナの居室から離れてしまったために、里珠は今まで以上に兄妹にかまうようになった。講義や婚姻の準備の合間を見計らって顔を出すと、二人とも笑顔で迎えてくれる。
 そのせいで今度は昼間獅苑と出会う確率が減り、悠那から「獅苑様が拗ねてしまうわよ」とからかわれる羽目になったりするのだが。
 その日はついに復帰し部屋にいることに我慢ならなくなった悠那を筆頭にお茶会を決行することになっていた。前々からの予定通りラエルとミーナも参加できるように、王宮の前庭を使ってだ。人目につかないようにと若干奥まったところにある東屋。警備の兵もいるが、四人に気を遣ってか視界に入らないよう影の方にいるようだった。
「えー、里珠、もう衣装合わせしちゃったの?」
 ミーナがひどく残念そうな声を上げる。昨日女官たち総がかりで着飾らされたことを思い返して里珠は苦笑する。いつも軽装でいることが多いだけに、非常に重かった。
「花嫁さんの衣装、見たかったのに……」
「ごめんね、部屋でだったから……」
 ラエルとミーナでは自由に出入りできないのだ。思い切りがっかりした様子のミーナに、赤子をあやしながら悠那が笑いかける。
「大丈夫。本番ではちゃんと見られるわ。殿下も里珠も、とても綺麗に着飾っているわよ」
「結婚式は出てもいいの?」
 少し驚いた様子のラエルは、それでも嬉しそうだ。すでに目を輝かせているミーナに笑いかけながら、里珠は言った。
「うん。ラエルもミーナも参加させてくださいって、獅苑様にお願いしたから、大丈夫」
「殿下が里珠のお願いをきかないわけないものね」
 それぞれのカップが空になってきているのを見て、里珠はお茶の用意を始める。今度はどう入れようかなと考えている間にも悠那と兄妹の会話は続いていた。
「二人とも午後からの予定はどうなっているの?」
「今日は語学の先生がまた竜の国の言葉を教えてくれるんだって」
「あら、二人とももう十分しゃべれるでしょう?」
「お城にいるなら、もう少し難しい言葉づかいとかもできないと駄目だよって」
「――んー、それはそうね。口うるさい人もいるからね」
 四人のカップにお茶を注ぎ始めた里珠に悠那が顔を向ける。その笑顔がとても楽しそうだ。
「そういえば、里珠、会話の勉強は進んでる?」
「うう、それを言わないでください悠那様。悲しいくらい進んでないんですっ」
 思わずこぼしそうになってラエルに笑われた。兄妹だけではなく、悠那やときには獅苑を先生にまでしてやっているが、どうにも上達しない。「必要に迫られるとまた違うんだろうがな」とは獅苑の評である。

 無事全員にお茶がいきわたり、それぞれがカップを持ったりお茶請けを取ろうとしていたとき、不意に悠那が表情を変えた。抱えている赤子をさらに強く抱きしめる。
「……おかしいわ、どうしてこんなところで気配が……」
 悠那の言葉を聞き終わらないうちに、竜珠にかすかな痺れが走り、里珠は顔をあげた。東屋を覆うように茂る、木々の向こう。
「魔物……!? どうして……!」
 ここは竜の王城。幾重も結界を張りあらゆる危険から人々や竜珠を護るものだ。ここにたどりつくには城下町を通らなければならないはずだが、外にそんな騒動があった様子はない。少なくともほんの一瞬前までは何事もなく平穏だった。
 悠那が見ているのも、里珠の感覚が訴えかけてくるのも同じ方向だ。魔物が入れるはずのない城内に魔物の気配がある。
「魔物? 本当に!?」
 竜珠を持つ二人が立ち上がりある方向を見ているのに反応してラエルとミーナも立ち上がる。旅の途中何度か魔物を見ているせいなのか、混乱する様子はないが不安があるのは間違いない。
「離れた方がいいわ――こちらに近付いてくる」
「はい。ラエル、ミーナ、悠那様と一緒に」
 より強い魔物ほど竜珠の存在を簡単に嗅ぎとれる。そして竜珠は魔物にとってよい獲物だ。気配が一直線に向かってくるということはあちらはここにある竜珠に気付いているということで、しかも離れていても竜珠の存在を把握できるほどには手強い魔物だということだ。
「悠那様、先に!」

 ラエルとミーナが悠那を支えて東屋の段を駆け下り屋根の下へ出た瞬間、里珠の背後で咆哮が響いた。振り向きざま、とっさに椅子の背をつかむ。木々の向こうから飛び出してきた魔物に向かって渾身の力で振り回した。
 叩かれた犬のような悲鳴が聞こえて、魔物はテーブルの上を滑り、カップやお茶菓子とともに東屋の床に転がる。その上に椅子を投げ捨て、里珠は東屋から飛び出した。
「里珠!」
 背後から悠那の声が届くが、振り向いている暇はない。向こうには子供二人に竜珠の姫、しかも赤子までいるのだ。そちらに走られてはとても困る。
「悠那様は先に中に戻っていてください!」
「里珠、僕何か武器をとってくるよ!」
 ラエルの声を背に聞きながら、里珠はあたりを見回した。護身用に獅苑の短剣は身に帯びているものの、まさか稽古でもないのに槍や長刀を持っているはずがない。
 しかも――しかもだ。驚愕すべきことに、魔物の気配は今東屋にいる一頭だけではないのだ。最初に魔物を感じた方向から、もうすでにいくつも気配が現れている。
 できれば尖っていて長さのあるもの――体勢を整えつつある魔物をにらみながら、里珠はあたりを窺う。訓練場でもないところにそんな都合のいいものが転がっているはずもない。しかし背後に悠那たちがいる以上、逃げ回るのも得策ではなかった。
 ある意味やけっぱちな気分で作りかけの植え込みの柵から角材を一本引き抜く。深く埋められていたのか、腕の長さとまではいかないが短剣よりは丈があった。
 じりじりと距離を詰めてくる魔物を見据えながら、里珠は武器代わりのそれを構える。
 そういえば、どこかに護衛の兵がいたはずだ。あるいは巡回中の者もいるかもしれない。先ほどのカップが割れる音が聞こえていれば、何事かと近付いているかもしれない。
 里珠は大きく息を吸い込む。
「誰か、いますかっ!?」




 悠那を護りながら、ミーナとラエルは城内へ戻るべく庭を駆ける。赤子を連れているからと思ったのだが、意外と悠那は足早だった。
「昔から、逃げるのと隠れるのは得意なのよ」
 そうやって冗談めかす余裕もある。それでも建物に近付き、必死に走ってくる三人を兵士が何事かと見咎める頃には、すっかり息が上がっていた。
「悠那様、どうなさいました?」
「ぜ……前庭の東屋のところに、行ってください……。何故かは、わからないけれど、魔物が現れました」
 当然のことながら、悠那の言葉に兵士たちは怪訝な顔をする。それも当然だろう、いつも言っている通り『城内に魔物が入れるわけがない』のだ。それでも国王妃である悠那が言うからこの程度で済んでいるのであって、ラエルとミーナではおそらく冗談と思われてしまうだろう。
 現にその言葉を聞いた兵士は対応に困って固まっている。
「魔物、ですか……? しかし……」
 この青年を説得しなければならないことはわかっているが、時間がない。悠那は逃げてきても、里珠はまだ残っているのだ。
 ラエルとミーナは隣国での道中、竜珠をあらわにした里珠をすべての魔物が追いかけて行ったのを覚えている。人々に言葉で繰り返される以上に、竜珠を持っていると危険だということはわかるのだ。
「信じられないでしょうけど、実際に魔物が、現れているのよ」
 呼吸が落ち着いてきた悠那が再度繰り返す。この三人の中で説明し応援を呼ぶなら悠那が適切だ。
 ラエルは自分にもできることをしようと横から割り込んだ。里珠がよく使う武器は長刀と槍――稽古中に見かけたのはそのふたつだ。
「お兄さん、どこかに余ってる武器、ないですか? 里珠がまだ向こうにいるんです、武器を何も持ってないの!」
 本当なら里珠の部屋に置いてあるだろうものを持ってくるのが一番良いのかもしれない。しかしラエルではそこに入ることはできないし、棟の位置を考えれば時間が足りなさすぎる。目の前にいる兵から借りるのも手だが、悠那の護衛ということを考えれば武器がないのも困るだろう。
「武器庫になら、あるが……」
「それ、どこですか!?」
「いや、入るには鍵がいるんだ」

 当惑している兵士の横を、突然ミーナがすり抜けた。視界に入った妹の姿にラエルは驚く。
「ミーナ?」
「お兄ちゃん、わたし獅苑様に伝えてくる!」
「ミーナ、『あの抜け道』からならすぐよ!」
「はぁいっ!」
 そう言って勢いよく駆けだした背中に、悠那が叫んだ。『あの抜け道』がなんであるかラエルにはわかる。悠那が教えてくれたのだ。おかげでラエルとミーナは大人たちの目を盗み、入ってはいけないと禁じられたところ以外は自由に城内を渡り歩くことができる。
 獅苑の名を出したことと三人の様子に、さすがに放置できることでもないと思ったのだろう、兵士は若干表情を変えた。ミーナが駆けて行った先の廊下から奇妙な顔をして現れた兵士を見ると、大声で呼びかける。
「おい、悠那様を中――いや、陛下のところへお連れしてくれ。それと、その槍もちょっと貸してほしい」
 呼ばれた方はさっぱり状況が理解できない様子だが、王妃を任されては気を抜けなかったようですぐさま了解した。その兵の槍は無事ラエルの手に渡り、ラエルは兵士を伴って東屋の方へ駆けだした。背中に悠那の実に危険な台詞を聞きながら。
「気をつけて、魔物は一頭だけじゃないわ」




 何故だろう、何か嫌な感覚がする――書類から顔をあげて、獅苑は眉をしかめる。先ほどまではなんということもなかったのに、それは突然するりと意識に滑り込んできた。
「どうされました、殿下?」
 横で書類の取りまとめをしていた霞炎も不思議そうな視線を向けてくる。
「いや、気のせい――というわけでもないんだが、何だか変な感じがしてな……」
「少し休憩しますか?」
 根を詰めすぎたのかと問う声に獅苑は不思議な気分で首をひねる。疲れた、とも違うのだ。何と説明したらいいだろう。
 唐突に執務室の扉が鳴った。しかも尋常ではない、拳を力いっぱい叩きつけているような音で、しかもそれは通常よりも低い位置から聞こえてくる。
「獅苑様、獅苑様っ!」
「ミーナ殿ですね」
 続いて外から聞こえてきた声でその疑問は晴れた。音の位置が低いのは、彼女の背丈のせいだ。しかし、その声は妙に切迫していて、さらに彼女がそうそう執務室に入ってこられるわけがなく、また彼女がそうしようとすることも今までなかった。
「開けますか?」
「ああ。珍しいな」
 獅苑の言葉に頷き、霞炎が執務室の扉を開く。迎える側は子供の遊びに付き合うかくらいの気持ちだったのだが、ミーナの表情を見て態度を変える。その切羽詰まった様子は、悪戯とか遊びとかそんな雰囲気ではなかったからだ。
「ミーナ、どうした?」
「獅苑様、大変です。魔物が出てきて――里珠が一人で戦ってるんです」
 肩を上下させながらの必死の言葉に、霞炎も獅苑も固まった。
「魔物……?」
「悠那様と、みんなで庭でお茶会をしてたら、突然……」
 獅苑ははたと気づく。先ほど突然襲ってきた嫌な感覚。こんな場所であるはずがないと思っていたから除外していたが、戦いに赴くときはいつも感じ取れる気配だった。当然だろう、城には結界が張ってあるのだ、魔物は侵入できないように厳重にされているのだから。
「これは魔物の気配か……!」
「では本当に魔物が?」
 霞炎の驚きを横目に、獅苑は傍にあった剣をつかむ。腰に装備している暇も惜しい。足早にミーナの元へ向かうと、その体を抱き上げた。ミーナの目に恐怖や不安の色はなく、じっと獅苑を見返してくる。里珠が一人でいるからと自分を呼びに来てくれたのだろう。信頼されている、ということだ。
「里珠はどこに?」
「お庭の『東屋』のあるところ。池が近くにあった」
「中庭ではないな?」
「うん。悠那様が景色がいいところがいいって」
 その台詞に獅苑は目を丸くする。里珠が一人で残っているなら、悠那は――。
「悠那様は無事なのか」
「お兄ちゃんと一緒にお城まで逃げてきたよ。兵士さんがいて、あと里珠は武器を持ってなくて、お兄ちゃんが届けに行くって――」
 獅苑は心の中で舌打ちした。さすがに城の中でまで武装するようには伝えていないし、里珠も安全と言われている場所で武器を携帯はしないだろう。稽古中だったというなら別だが、今はちょうど幸か不幸か茶会だったというのだ。武器を持つなんて無粋なことをするはずがない。
「霞炎、陛下に報告を頼む」
「わかりました」

 簡潔に言い置き、ミーナを左腕に抱きあげたまま、獅苑は執務室を飛び出した。ここから件の東屋に向かうには少し距離がある。どこを行ったものかと思案していると、横でミーナが声をあげた。
「獅苑様、ここから行くと庭園に早く出られるって。抜け道が」
「……悠那様か」
 今は国王妃という尊い女性におさまっている人だが、この城を誰よりも熟知している。本来の主たる長の一族以上なのだから驚嘆すべきで、それを伝える相手をいつも探しているらしいことは知っていた。里珠にもその知識の一端は伝えられたようなのだが、悠那ほど羽目を外すことがないらしく、次の弟子にこの兄妹を選んだものらしかった。
 それはともかく、急ぎたい今はありがたい情報だ。ミーナの導くまま、建物の外へ出る。今度はあちこちの隙間を案内され、さすがに獅苑では抜けられない隙間まで言われてしまい若干遠回りする羽目になった。おそらくこれは彼女自身が見つけたもので、意外と悠那の精神的な後継者はミーナなのかもしれない。
 開けたところに出ればもう目的の庭だ。東屋は視界に入っているもののまだ池を回った先にある。ちょうどその視線の先、東屋の周辺に里珠と二人の兵士、そして両手の数ほどの魔物がいた。
「あんなにいっぱい……!」
 ミーナが悲鳴を上げる。獅苑としても予想外だ。はぐれ魔物が迷い込んできたなどという代物ではなく、侵入は明らかに意図的だ。しかも魔物は兵士など目もくれずすべてが里珠を狙っていて、当の里珠は未だ丸腰だ。何かを持っている様子だが、明らかに心許ない。
「……っ!」
 獅苑は走る速度を上げた。池を回りこまなければならないのが本当に惜しい。
「あ、お兄ちゃん!」
 獅苑がまわりこんだ反対側からはラエルが槍を抱えて走ってきていて、そこを追い越すようにさらに兵士が駆けて行く。これで兵士は三人。獅苑がたどり着いて里珠が武器を手に取れば実質五人以上――。
「ミーナ、ここまでだ。あとは巻き込まれないよう離れていろ」
 途中でミーナを地面に下ろす。ミーナは頷いて身を引いた。彼女まで狙われては戦いにくくなる。
 獅苑はその場で剣を抜いて鞘を投げ捨てた。





「里珠様、今まいります!」
「里珠、持ってきた!」
 聞こえてきた声に、里珠は襲ってきた爪を避けて後ろに飛び退く。振り返ると、剣を構えて飛び込んでくる兵士の後ろにラエルの姿が見える。それは里珠の愛用するものではなかったが槍だ。兵士と入れ替わるようにラエルのところへ走り、槍を受け取った。
「ありがとう、後は後ろに下がっていて」
「獅苑様も来てるよ、向こう!」
 その声にちらりと池の向こうを見ると、ミーナを抱き上げたままこちらへ向かってくる獅苑の姿が見える。
 ほっと安堵するのと同時に、明らかに全身傷だらけのこの姿を見られたら後が怖いと思ってしまった自分に呆れた。が、いつまでも気を逸らしている場合でもない。
 少し手にかかる感覚がいつもと違うが、槍を振り回す。これで今いる魔物に負けるつもりはない。先ほどまでは攻撃を避けて威嚇する程度しか方法がなかったのだから、格段の改善だ。
 離れた里珠をめがけ飛び出してきた魔物に槍を一閃させる。動じた様子でそれは避けたものの、後ろにいた兵士に切られて昏倒した。ラエルを巻き込んではいけないと、里珠は地に伏した魔物の横をすり抜けて、槍を旋回させる。
 一体が倒れたが、魔物の数は未だ片手より多い。そのすべてが里珠――その胸元に煌めく竜珠を狙う。それを阻もうと三人の兵士たちが武器を振るうわけで、すっかり混戦状態になっていた。
 飛びかかってきた魔物の目を正確に貫き、里珠はすかさず槍を構え直す。横から突っ込んでくる魔物は思い切り槍で薙ぎ払う。三匹目の攻撃は後ろに飛び退いて避け、里珠は顔をあげて向こうを見た。
「里珠、無事か!」
 命という意味でなら全くの無事、怪我という意味でなら無事ではない。里珠は槍を振るいながら笑顔を向ける。
 魔物と兵士三人を挟んださらに向こうから、剣を翻し飛び込んでくるのは獅苑だ。兵士たちに阻まれ里珠のところへ辿り着けずにいた最後尾の魔物を一閃で切り捨てる。
 これで五人。すでに半分に数を減らしていた魔物をすべて倒すのにさほど時間はかからなかった。


 積み上がった魔物の数は九匹。魔物退治に行けば見慣れるものであるが、今この場で見られることが異常だ。里珠はまじまじとその光景を見つめた。
 ラエルとミーナも里珠の傍へ来て、恐る恐るといった様子で魔物の躯の山を観察している。
「――何があったんだ、一体」
 大したことはないとは言え、全身傷だらけの里珠を見て、獅苑はあからさまに眉をしかめる。まずは現状把握が先だとは思ったのだろう、「治療してこい」という前にそう尋ねてきた。
 里珠は少し考え込んでから口を開いた。
「悠那様と、ラエルとミーナと、四人でお茶会をしていたんです。そうしたら突然魔物の気配がして……」
 どちらからだったか。里珠は東屋の方を見る。生い茂り東屋に影を落としている木々の向こう、そちらから魔物はやってきたのだ。里珠はそちらを指で示して続けた。
「向こうの方からまっすぐこちらへ向かってきたんです。それで、悠那様と二人には逃げてもらって、なるべく時間を稼ごうとしてました」
 里珠の説明に獅苑は無言だった。それが、最善の策であるとわかるからだろう。たとえ、里珠も危うい竜珠持ちで、さらに丸腰だったとしてもだ。
「その間に魔物の気配は増えてました。それが全部私のところへ迷いなく向かってきていたから、たぶん竜珠のことが分かっていたんだと思います」
「……なるほど。今は魔物の気配は?」
「今は、ありません」
 里珠の断言に、獅苑は苦虫を噛み潰したような顔で頭をかいた。
「結界が破られた痕跡はない。――となると『扉』の可能性が高いが……厄介なことになったな」
 かつて西封周辺と北の街道をつなぎ、里珠をセランへと移動させた空間の歪みについて、『扉』と呼ぶことになっている。竜の王国、竜族たちへ魔物を使って執拗な攻撃を繰り返す何者かは、『扉』を自由に使えるようになってきているというのが今までの経過からわかっている事実だ。
 竜の王国の都であるこの王都には、住民を魔物の侵入から守るように昔から結界が張られている。その中心たる竜城にはさらに厳重な結界が幾重にも張られており、魔物の存在を徹底的に排除するようになっているのだ。
 それもすべては竜族にとっての至宝である竜珠を護るためだ。この中だけという制限はあれど、この城の敷地内であれば、竜珠を持つ娘たちも自由に過ごすことができた。
 しかし、それが崩れようとしている。『扉』がその結界の中に開かれて魔物が入りこめるのであれば、どれだけ結界を重ねようと全く意味はなく、竜珠にとって安全な場所というものもなくなるということだ。
 獅苑は顔を上げると兵士たちに指示を出し始める。
「二人はこの魔物の始末と、陛下へ報告を。それから神殿へも連絡してほしい。『扉』を封じる用意を頼みたい。残り一人は俺についてきてくれ。魔物が出現した場所を確認する」
 三人はすぐさま了解すると一番怪我の少ない一人を残し城へ戻っていった。応援を呼んでくるのだろう。
「ラエルとミーナは戻って、悠那様の様子を見てきてくれるか」
 獅苑の言葉に兄妹は頷き、兵士たちの後を追うように駆け出す。それを見送って、里珠は獅苑を見上げた。
「里珠は俺と一緒に。魔物の気配があったら、すぐに教えてくれ」
「はい」
 竜珠に手を当て、里珠は頷く。少しだけ驚いたが表情には出さない。魔物が現れる方向へ向かうのだから、むしろラエルたちと一緒に戻れと言われるかと思ったのだ。魔物の気配をはっきり感じ取れるのは里珠と悠那だけだ。獅苑の意図はわからないにせよ、役に立てることがあるのは嬉しかった。

 獅苑を先頭に、里珠は竜族たちに前後を挟まれて歩く。槍を持っているし、目の前にいるのは獅苑だから、特に不安になるようなことはない。
 少し歩いたところで里珠はあたりを見回して獅苑を呼び止めた。
「最初に魔物の気配を感じたのが、この辺だった気がします」
 実際のところ正確さには欠ける。自分が感じたときに東屋とこのくらい離れていたかも、という程度でしかない。悠那の方が先に魔物の存在に気付いていたからもしかしたらもっと距離があったかもしれない。
 魔物が現れるには『扉』か『魔物の巣』のどちらかが存在するはずだ。しかし、正門からずっと離れた敷地内の端の方で茂る木々も多いとはいえ、隠れる場所が多いわけではなく見える範囲にそれらしきものもない。
 警戒しながら周囲を見回す獅苑の背中を見つめていた里珠は、ふと湧いた嫌な感覚に、その方向へ視線を向けた。
「獅苑様、向こうから気配が」
 言い終わらないうちに、木々の間からにじみ出るように魔物の姿が現れる。奇妙な現れ方を見れば、その周辺が『扉』で間違いないようだ。
 三頭現れた魔物は、どれも確実に里珠の方を見つめていた。竜珠が隠れるような服を着ているのにそれということは、先ほどの魔物たちと同様だろう。
 獅苑と兵士が剣を手に魔物に向かっていくのを見送って、里珠は槍を構えてその場に留まる。相手が三頭で獅苑がいるなら、たぶん自分の出る幕はない。これ以上傷を増やさないようにした方が有益だ。
 どの道『扉』が閉じられない限り安全はないのだ。神殿から王女が来るか、神矢が届くまで待たねばならない。
 結局、連絡を受けた桜華が現れるまでの一刻ほど、里珠たちは周囲の探索と『扉』から現れる魔物の撃退を繰り返す羽目になった。   


2009.12.21

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