3
そこで、初めて知った。
たとえ自分が恨みのない相手でも、怒りを抱けるということを。
そんな想いがあることを。
「このまま、マイアの海岸まで連れていってもらえるか?」
デュランの願いにブースカブーは鳴き声ひとつで応じ、気持ち良さそうに大海原を泳ぎ始めた。
「ああ……おっかない目……合った……」
ケヴィンは心底安堵したように呟く。狼の姿なら、間違いなく耳は垂れているに違いない。
「リース、大丈夫か?」
ずっと俯いたままのリースに、デュランは声をかけた。ちなみに、抱え込んだままである。
いつのまにかデュランの腕をつかんでいたその手に、力が込められる。
「やっと……見つけた、手がかり……だったのに……エリオット……」
囁くよりも小さな弱々しい呟きとはうらはらに、手に込められた力は相当なものだった。つかまれたデュランが思わず眉をしかめるほどに。
そこから彼女の悔しさと激しい怒りが痛いくらいに伝わってきて、デュランは声をかけられなくなった。
俯くその姿は、とても痛々しかった。
(―――?)
デュランは不思議な感覚を味わう。
怒りは外から伝わってくる。それはリースが内に秘める怒りの感情。
何故だろう。
何故か、自分の内側からも、あの赤い瞳の男―――邪眼の伯爵に対する怒りが沸いてくるのだ。
自分自身に危害を加えられたわけではない、妹や伯母がさらわれたわけでもなく、黒の貴公子とかいう奴の予言さえなければ、あの場で交わることもなかった。
それなのに。あの男を目の前にして動けなかったことが、まんまと逃げられたことが、何もできなかった自分が、何故か悔しくて堪らなくて。
その感情が、リースから伝わる感情に呼応して爆発的に膨れ上がっていく。
リースの思いと呼応するような、彼女と心を重ねているような。
そんな気分だった。
その感情も、リースがはっと我に返ってデュランの手を振り払い顔を上げたことでかき消えた。
「す……すみません」
いつも通りの表情で、何の感情もこもらない、だが優しく響く声音で、謝罪の言葉を言う。
だがその影に今にも泣き出しそうな姿をデュランは垣間見た。その姿が真実の姿だろう。
―――でなければ、さっきの激情はなんなのだ。
「無理するなよ、……悔しかったんだろう?」
海鳥の鳴き声が響いても、リースの表情は緩まなかった。
「いいえ、大丈夫です」
「リース、大丈夫、違う」
割り込んだのはケヴィンだった。
「今にも泣きそうな、顔、してる」
「そんなこと……」
否定しようとするリースに、ケヴィンはなおも言いつのった。彼にしては珍しいことだった。
「泣きたいとき、泣くの我慢する、一番良くない!」
叩き付ける勢いの言葉に反応するように、リースの瞳で涙が球を結んだ。一度涙がこぼれれば、後は止まらない、次々にあふれてくる。
「わ……私……」
混乱し慌てて涙を隠そうとするリースの腕をつかむと、デュランはその腕を引いて自分の胸にリースの顔を押しつけた。
「ここには俺たち以外に見てる奴も聞いてる奴もいねぇ。マイアに着くまでに、泣いて全部吐き出しちまえ!」
一瞬の間。
枷を解かれたようにリースは泣き出した。
しばらくの間その声は三人の間に静かに響き、そして波間に消えていく。
誰にも頼れず、悩みを打ち明けることもなく、彼女は自分の中に貯めていったのだろう。
女神と呼ばれた王女の、これが本当の姿なのかもしれない。
女神に似ていると賞賛される王女が、封印を解かれて少女になった―――。
そんな気がした。
◇ ◇
「……たぶん、大丈夫です」
「だな、もう目も赤くねぇみてえだし」
マイア近くの海岸。ブースカブーに送り届けられてから既に時間が経過しているにもかかわらず、三人は未だそこにいた。
ブースカブーの背に揺られる間きっちり泣き続けたリースはすっかり泣き顔になってしまい、街に入る前にここで休もうということになったのだ。
冷たい水に浸したハンカチでしばらく目を冷やすと、だいぶ良くなったようだ。デュランがのぞき込んでみると、冷やす前の兎のような目はもうだいぶ普通に戻っていた。
ケヴィンものぞき込んでみて、
「うん、いつもの顔だよ、リース」
と言ったので、休息を切り上げて街へ向かうことになった。
ボン・ボヤジに頼めばフォルセナ城の中庭へすぐに飛ばしてくれる。英雄王にすぐにでも謁見できるだろう。
やけに上機嫌で荷物を抱え歩き出すケヴィンの後ろに続こうと、埃を払いながら荷物を持ち上げたデュランの背に声がかけられた。
「あの……、デュラン」
「ん?」
「あの……ありがとうございます……その……」
リースの視線が言葉を探して宙を彷徨う。
「気にすることないだろ? ……仲間なんだから、さ」
特に気にした様子もなく答えたデュランに、リースは一瞬目をぱちくりさせ、その後、笑みを浮かべた。
満面の笑顔。
「……そうですね」
さっきまで泣いていたのが嘘のような笑顔で、リースはふふ……と笑っている。
デュランはその様子を見て、視線が彼女の姿に固定されてしまった。
彼女の笑顔から訳もなく目が離せない。
その表情に、あの女神像の既視感は、重ならなかった。