時の円環-Reconstruction-




 埃とかびの臭いが満ちる書庫。古来からの貴重な文献を保護するためにできる限り灯りを落とされた部屋に、一人の少女が篭っている。
「うーん……」
 机に目一杯広げられた典籍や巻子本の山に埋もれ、鈴麗は唸り声をあげていた。
 睨み付けているのは、目の前に広げられた本の見開き。
 邪魔にならないように後ろで結い上げた黒髪をいじりながら、鈴麗は肩を落として薄暗い天井を仰いだ。
「呪いを解け、なんて簡単には言うけど……」
 深くため息をつくと、勢いよく本の上に突っ伏す。もう何時間も書と格闘しているが、一向に芳しい結果は得られていない。印刷されたものはごくわずかで、写本や研究本にいたっては崩れた手書きも多く、読み取りにくい文章を意訳するのにもいい加減疲れてきた。
 その上。
(手がかりがあまりにもなさ過ぎる)
 そう心の中で毒づく。少ない、とすら言えず、むしろ皆無と言ってもいいかもしれない。
(……まあ、仕方ないといえば仕方ないけれど)
 鈴麗は本の上から身体を起こして椅子に寄りかかると、ここしばらくの間彼女をひどく悩ませる事柄の原因となったある出来事を思い返した。



 およそ一月ほど前のことになる。
 鈴麗の属する一族と、ある部族の間で戦があった。彼女が生まれるもうずっと前から、幾度となく繰り返されているのだという戦い。神々へと繋がるとされる力を手に入れるために行われているものだが、常に敵方に阻まれ一度としてその目的を達したことはないという。
 大敗を喫することも過去多くあったが、最近―――といってもここ十年ほどだが、対抗策となる武器の開発も進み、痛み分けとなることも多くなってきたらしい。そろそろ目的を果たせるのではないかと囁く者も中にはいるほどだ。
 それが。
 つい先日起こった戦で、彼女らの部族は大きな損失を被ったのだった。

 目の前で起こった出来事は、鈴麗の瞼に鮮明に焼きついたままだ。
(何の役にも立たなかった)
 護らなければいけなかったのに、護れなかった。ありありと蘇るその光景に鈴麗は歯を食いしばる。

 鈴麗の属する陣営を指揮するのは現皇帝。そしてその傍らで軍を守護する巫女として力を振るっていたのが、鈴麗がその護衛を命じられていた皇女・芳姫だ。
 か弱い乙女の身で戦の中に身を置く芳姫は先陣で繰り広げられる阿鼻叫喚にも怯まず味方を鼓舞し続けていた。鈴麗はその周囲で同じ任務を受けた数名と守護に当たっていたのだ。
 敵軍には翼を持つ馬がいる。空からの攻撃に対しても充分に警戒していたつもりだったのに。
 それは彼女のいる陣のはるか遠く、空からやってきた。
 たった一瞬のうちに眩い閃光が戦場を走り、一段高いところにいた芳姫を貫いたのだ。
 何が起こったのかすら、わからなかった。
 眩い光が掻き消えて、その瞬間芳姫の身体は崩れ落ちた。―――その後は、思い出すのさえ辛い無残な光景。
 何より溺愛している一人娘の姿を見た皇帝は動揺し、それは波紋のように軍を浸食していった。相手の軍に互角に戦っていたはずの自軍はただ一人の乙女が倒れただけであっという間に統制を失った。おそらく後世に残る無様な敗走。
 予想以上の被害と死者を出し、部族の象徴たる神女を失って、戦は終わった。

 当然ながら追及されたのは芳姫の周囲で護衛をしていたはずの鈴麗たちだった。本来なら彼女を身体を張って護るべき彼女らが倒れた芳姫の元へ駆け寄ることしかできなかったのだ。皇帝の怒りは恐るべきものだった。
『芳姫は眠っているだけです。それなら何か方法はあるかもしれない』
 あの場で芳姫の婚約者たる龍炎が諌めてくれなければ極刑すら与えられたかもしれない。
 芳姫は命を奪われたのではなかった。王宮へ戻り医師の診断を受けてわかったことだが、彼女は相手方の術により深い眠りを与えられただけなのだ。
 そして、役目を果たせなかった芳姫の護衛たちに与えられた任務は、この術を解く方法を探し出し一刻も早く彼女を目覚めさせることだった。



 蝶番の軋む音とともに、室内にわずかな光が入り込んだ。鈴麗が顔を上げると、流れるような動きで扉を閉めた人影がゆっくりとこちらへ近づいてくる。
 その人物を認めて、鈴麗は強張った表情をわずかに解いた。
「龍炎様、どうなさったのですか」
 響かぬよう音を忍ばせて鈴麗の座る机に歩み寄ったのは、皇女の婚約者で次期後継者である青年だった。はたと我に返った鈴麗が慌てて立ち上がり臣下の礼をしようとすると、穏やかな動作でそれを止める。
「大切な任務中だろう。他には誰もいないのだから、気にすることはない」
 そう言って龍炎は整った顔に優しげな笑みを浮かべた。皇帝の補佐として政務に携わるときの彼は凛々しく威厳に溢れているけれど、今のように髪を下ろしたくつろいだ姿は本当に穏やかだ。身分高い存在でありながら、鈴麗たちのような下々の者にも配慮を怠らない。次期後継者は理想的な人物だと誰からも目されている。
 その笑顔に一瞬見とれて、鈴麗は大人しくその言葉に従った。疲れているのは事実だったのだ。

 龍炎は机の隅々にまで広がりきった書籍の山を見て、呆れたように息を吐く。
「ずいぶんと根を詰めているようだ」
「早く、芳姫様を目覚めさせたいんです」
 鈴麗は力を込めて手を握り締めた。
 そうなのだ、早く目覚めさせたい。また笑いかけて欲しい。そのためなら、自分がどれほど疲弊しきってしまっても構わない。
 今朝この書庫を開ける前に見舞ってきた主の姿を思い描いた。
 容姿端麗、才色兼備と謳われた佳人なのに、この一月の間にいくらか痩せてしまわれた。看護婦たちが懸命に世話をし、数えるほどしかいない貴重な術士たちをその身体の治療に注ぎ込んでなお、眠り続ける皇女・芳姫の姿は哀しいほどにやつれていく。
 護衛である鈴麗たちをいつも労わってくれた優しい人。その花が風に揺れるような可憐な笑顔が鈴麗を急きたてる。

「鈴麗」
 思考を遮る声がして、鈴麗が目の前を見上げると龍炎がこちらを覗き込んでいた。その手が固く握られた鈴麗の右手を掴んでいる。諌めるような声音に、初めて掌に爪が食い込んでいることに気がついた。
「みなが芳姫のために頑張っていることは知っている。けれど自分を犠牲にしては芳姫は喜ばないし、俺も嬉しくはない」
 それを忘れないでくれ、と龍炎は厳しい口調で言う。鈴麗には―――他の者にもそうだろうが―――、とても嬉しい言葉だった。それだけで頑張れると思うほどに。
「はい」
 鈴麗の素直な返答に龍炎は満足そうな笑みを返す。
「間もなく夕刻になる。あまり遅くならないうちに退出することだ。光玉殿も心配する」
 そう言いおくと龍炎は静かに退室した。鈴麗は立ち上がり、今度は一礼してそれを見送る。廊下を遠ざかる足音に耳を澄ませて、鈴麗はつい先ほど温かさが触れていた右手を見つめた。
「……さて、せめてこのひっくり返した文献くらいは確認しておかないとね」
 わずかな時間ではあったけれど今のでずいぶんと力を取り戻した気分だ。鈴麗は気合を入れなおすと再び本と格闘を始めた。

 他の護衛たちも真剣なのは当然だけれど、鈴麗にも絶対にこの任務を成功させたい理由がある。
 微妙な立場にいる鈴麗を特に気にかけてくれたのが、芳姫と龍炎の二人だった。鈴麗とは五つ以上年上となる二人は、彼女が母―――光玉を護るため王宮に上がったときから兄姉のような存在だ。他の者たちが遠巻きにする中を臆することなく声をかけ、何かと世話を焼いてくれ、母親のことすら心配してくれた。
 周りがすべて敵かもしれない鈴麗にとっては眩いほどの存在。二人を慕うようになるのにさほど時間はかからなかった。芳姫も龍炎も大好きだ。だからこそ、片方が欠けたような今の状況には耐えられない。二人には並んで笑っていて欲しいのだ。
 そして夕刻を告げる鐘がなるまで鈴麗は積み上げた文献を読み続けた。



 番兵が閉門しようとするところを鈴麗は慌てて駆け抜ける。挨拶をしながら通り過ぎたものだから、その背に兵の返事を聞きながら、鈴麗は王城の門を飛び出した。
 鐘が鳴り終わる最後の響きで我に返り、急いで本をすべてもとの場所に戻して施錠し鍵を返して城を出るまで二十分。

「……芳姫様に挨拶する暇もなかった」
 立ち止まって息を整えている最中に鈴麗は重要なことを思い出して呆然とする。ここ一月必ず参上したときと退出するときに芳姫の元を拝趨していたというのに。あまり遅くならないうちに、と釘をさした龍炎の言葉は間違っていなかった。大事なことを忘れてしまうなんて。
 鈴麗は深くため息をつくと歩き出した。こうなればせめて母を心配させることのないように早く帰らなければ。
「芳姫様も龍炎様も大変な状況にいらっしゃるのに、一人で喜んだりしてるからね……」

 しかし、急ぎ足で帰ったというのに案の定玄関先に待っていたのは心配極まりない表情の母・光玉だった。
「いつもの時間になっても帰ってこないから、何かあったのかと思ったでしょう」
「ごめんなさい」
 全く以って立場がなく、鈴麗は小さくなって謝るしかない。光玉は困ったようにため息をついた。
「皇女様のことは理解しているわ。でも、あんなに朝早くから城に上がるのだから、夕方は早く帰ってきてねと約束したでしょう。それでは解決策が見つかる前にあなたが倒れてしまう」
 光玉は昼間の龍炎と全く同じことを言う。それは正論で鈴麗には反論の余地はなく、けれどだからこそ鈴麗は止めることができなかった。鈴麗は返す言葉もなく黙り込んでいたが、そうそうに光玉が話を打ち切る。
「いいわ。何度も言うことではないものね。夕食が冷める前に頂きましょう。さあ、荷物を置いて早くいらっしゃい」
 先ほどの憂い顔から一転、笑顔を見せて光玉は鈴麗を中へ導く。中からは良い匂いが漂ってきている。鈴麗は急いで自室へ荷物を置いて着替えを済ませると食卓へと向かった。室内では光玉が笑顔で待っている。
「そのうち暑くなってくるけど、今夜は温かいものにしてみたの」
「うん、おいしそうだね」

 鈴麗は母・光玉との二人暮しである。二人で食べるには充分な食事だが卓が二人分には少し大きいせいか多少寂しい気もしなくは無い。母娘暮らしならこの卓の大きさは不釣合いだが、それにはそれ相応の理由があるのだ。
 向かい合わせで座ると食事前の挨拶をしてから箸をつける。何とはなしに食事の話題は常々鈴麗を悩ませる事柄になった。
「それで、何か進展はあったのかしら」
「……なんにも。書庫の文献はあっても断片的な書かれ方しかしてないし、研究そのものもあまりされてないみたいだしね」
「そうねえ……あまり神族の魔術の研究というのは今まで聞いたことがないわね」
 食事の合間に愚痴を言ったりするのは消化にはよくないと思うが、それでもこんな話題になると鈴麗としては愚痴るしかない。
「魔術の本もね、やっぱり自分たちが使えるもの程度しか扱ってないんだ。過去にこんな呪を受けたこともなかったと思うし」
 もうここにある資料じゃ無理なのかな。
 鈴麗は静かに零した。来る日もこればかり考えている。毎日の日課にしている医学書の勉強もこの一月は手付かずだが、それどころではない。

「ねえ、鈴麗」
 ふと母の声がして、鈴麗は顔を上げた。こちらを見る表情はとても真剣だ。
「華瑛殿に訊いてみるのはどうなのかしら。実際に魔術に通じている人なのだもの、確実ではない?」
「そんな……! いくらなんでも訊けないでしょう!?」
 あまりにも大胆な光玉の提案に鈴麗は目を剥いた。いくらなんでもそれは豪胆すぎやしないか。
「けれど、魔術に対抗できるのは魔術だけなのではない? 医術や薬で何か方法はあるかもしれないけれど、少なくともそれは魔術の仕組みを理解した上でなければ無理でしょう。早く助けたいと思うなら、なおさら」
「それは……そうなんだけど」
 鈴麗は口ごもった。
 光玉の言うことも確かだ。おそらく芳姫が受けたあの光は魔術によるもので、それらしきものが何も記録にないということはつまりあの部族だけが使うことのできる高等魔術と呼ばれるものに違いない。
 そしてそれだけのものを解くにはそれなりの知識が要る。あの魔術が何であったかを理解しない限り、魔術であろうがそれ以外の方法であろうが解くことはできない。
 そしてあらゆる知識の集まっているはずの宮城の書庫でも手がかりの片鱗すらつかめないということは、解く手段はないということだ。それが相手方の思惑であろうから。
 けれど、鈴麗と光玉は別の方法で解決策をえられる可能性がある。

「でもね、いくら自分の妻と娘だからって、そんなこと教えてくれると思う?」
「それは頼み方次第だと思うわ」
「そうかなあ」
「ちょうどいいでしょう。華瑛殿、明日いらっしゃるんだもの」
「うーん……」
「やってみる価値はあるのではない? 皇女様――芳姫様を助けたいのでしょう」
 光玉の最後の言葉がぐっと鈴麗の身に沁みていく。そう、それが一番の望み。そのために一番いい方法は間違いなく母の提案したものだ。
 躊躇いがあるのは、それが華瑛――鈴麗の父にとっては望まないことであろうからだ。ただでさえ城に上がり皇女に仕えているということすらなんとなく後ろめたいのだから、余計に。
 鈴麗はどうしたものかとため息をついて、器を卓にそっと戻す。続いた光玉の言葉に、さらに頭を抱える羽目になった。
「あなたに頼みごとをされるなら、華瑛殿も喜ぶかもしれないわよ。大事な娘に頼られるのですもの」



2007.11.25


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