時の円環-Reconstruction-




 夏を待つばかりの陽気は心地よい。東屋の柱に寄りかかり日陰に身を置けば、そのまま眠りに落ちてしまいそうだ。
 すっかりお気に入りとなった王宮の中庭の東屋で、海苓はぼんやりと景色を眺めていた。
 いっそ昼寝でもしてしまいたい心地よさだが、一応待ち合わせ中である。さすがに寝てしまうわけにはいかないのだが。

「……また、忘れてるのか」
 それとも呼び出されるのか、どちらだろう。
 思わず額に手を当て、海苓はため息をついた。幼い頃からの付き合いだからこの程度の振る舞いには慣れてしまっているし、別段用事もない休日だから構いはしないのだが。
「この調子なら、たぶん研究棟だな」
 呟いて、海苓は立ち上がった。同時に東屋に入ってきた人影を見つけて、海苓は目を瞬かせる。王宮に仕える女官だった。
「申し訳ありません、海苓様。凍冶(とうじ)様より伝言をお預かりしているのですが……」
 挙げられた名前に海苓はやっぱり、と思う。聞いてみると、手が離せないので研究棟の方へ来て欲しいとのことだと女官は言った。すれ違いにならなかったのは幸いだろう。
 海苓が笑って礼を述べると、女官はわずかに顔を赤らめ恐縮した。

 東屋を出て、目的地である研究棟へ向かう。待ち合わせの度に歩かされる羽目になり、すっかり御馴染みの道になってしまった。
 人気のない奥まったところにある扉が、海苓が待ち合わせていた人物の部屋である。
 海苓が軽くため息をついて扉を叩くと、なんでもないような声で「どうぞ」と返答があった。扉を開けると、部屋の中央の卓で本に夢中になっている青年の姿がある。しかも、明らかに来客だというのに、まったくこちらを向く気配がない。
「……凍冶」
「ああ、この部分を読むまで待っていてくれ。あと少しなんだ」
 一応声をかけてみると、海苓が凍冶と呼びかけた青年は、まったく身動きをせずそれだけ言った。おそらく手が離せない用事というのは『これ』だ。
 いい加減何度も繰り返している自分も学習するべきだが、これからは待ち合わせ場所はここにした方がいい、と海苓は痛感した。
 こうなれば凍冶の気が済むまで何を言っても無駄なので、海苓は黙って部屋に入り、凍冶の向かい側に腰掛けることにする。なにげなく振り返ってみると、海苓の座る背後には壁一面に本棚がしつらえられており、その半分ほどは書物やら何やらで埋まっていた。

 どのくらい待っただろうか、凍冶は満足したように顔を上げ、本を閉じる。切れ長の目が満足そうに笑い、海苓を見た。それを見て、海苓は呆れ顔を向けるしかない。
「終わったのか」
「ああ。すまないな。今朝この書物を頂いたので、ちょっとだけ目を通すつもりがつい夢中になってしまった」
 からっと答えられ、海苓は肩をすくめる。昔からこういう奴なのだ。
「で、結局用件はなんだったんだ」
「ああ、それはね」
 海苓が気を取り直して話を切り出すと、思い出したように凍冶は顔を明るくし、すぐにその内容を話し出した。それは海苓自身が他愛なく相談していた探し物で、まさか本当に見つけ出してくれるとは思っていなかったものだった。
 驚くしかなく、礼を言うと、凍冶はなんでもないことのように笑う。
「他でもない海苓の頼みだからね、私だってやらずにはいられない」

 ふと海苓は卓の上に置かれた本に目をやった。つい先ほどまで凍冶が読んでいた物だ。今朝、というからには新しい書物だろう。
「それは?」
「これは、華瑛殿から届けられたものなんだ。明後日から講釈をしてくれるというので、あとで目を通しておかなくちゃならないんだが」
 やはり最新のものは興味深いねと凍冶は楽しそうに笑う。
 本を贈った相手から、海苓にはそれが一体何に関する書物か見当がついた。

 研究棟に一室を与えられている凍冶は、れっきとした学者である。もともとは海苓と同じように武官で、位もしっかり与えられているくらいなのだが、何が楽しいのかほとんど研究室にこもっていることが多い。鍛錬に当てる時間は他の武官と比べて段違いに少ないはずなのだが、戦場に出ると引けをとらずに善戦する。幼い頃からよく見知っている海苓であっても、この辺は不思議で仕方がない。
 囁かれている呼び名が『変人』だ。もっとも、この名はそれだけのためではないのだが。
 その彼が夢中になっている研究というのが、医学全般だ。人の身体、病気、その治療についての研究をしている。が、この分野に携わる学者自体が稀なのだ。
 そもそも魔術、そして人を癒すことに特化された法術が主流である神族の中で、医学というのはそれほど需要は高くない。術を使う上で必要とされた知識の集積、魔術から派生してきた程度の認識しかないのだ。
 薬草などの知識も、基本的には術を強める効果があるから、などの理由で学ぶのみだ。
 魔術の力の弱い人間たちに比べれば、医学知識の需要というのは低かった。法術士はある程度人の身体を知っていれば、傷を癒す法術の力を強くしていくことが重要視されたからだ。
 そんな神族の中で、医学の発展の重要さを説いてきた一派がいる。魔術も法術も精度を増すにはこれらの知識が必要だと常に語り続ける彼らに、凍冶は属しているのだ。
 彼らが最も医学が進んでいるとするのが鳳族で、何とかしてその知識を手に入れるべきだと主張していた。

 華瑛が凍冶に贈ったということは、その書物が鳳族の医学知識をもたらすものだということだ。
 海苓がちらりと本の表紙に目を走らせると、神族の使う言葉とはわずかに異なる文字で構成された題名が読み取れる。その中身は当然鳳族の言語で印刷されたものであるが、海苓にも凍冶にもそれを理解することはできるのだ。
「医学書、か」
「なかなか面白いものだよ。気脈に関する記述は、魔術にも応用が利くと思うけれどね。明後日は光玉殿がこれを元に講義をしてくれるそうなんだ」
「光玉、というのは、華瑛殿の……」
 文官・華瑛の妻が鳳族の女性である、というのは神族であれば誰もが周知の事実だ。その女性と娘が医学を学んでいる、というのは凍冶からもたらされた情報で、医学の講義をしてくれるというのであれば、その二人しかありえない。
「奥方だよ、君には周知のことだろうけれどね。そのうちお披露目がされるんじゃないのかい」
「昨日、見かけた。娘のほうも」
 休憩中東屋にいたら、見事に渡りを通りかかる三人を見かけたのだ。しかも娘の方とは衝突しかけて道案内までしてしまう始末だ。昨日見た彼女の驚愕に満ちた顔を思い出して、海苓は苦笑する。

 ふと顔を上げると、凍冶の含みのある視線とぶつかり、海苓は怪訝な顔をした。
「なんだ?」
「いや」
 海苓が尋ねると、凍冶は頭を振ってそれ以上は何も言わない。だが非常に楽しそうな顔をしていて、どうにも癪に障る。ちょっと睨んでやると、だが凍冶は気にした様子もなく話題を変えた。
「明後日の講義には海苓も行ってみるかい」
「いや、いい」
 即答し、海苓は凍冶から渡されたものだけを持って椅子から立ち上がった。
「おや、珍しいことだね。術の発達には興味を示していたと思ったが」
「お前に講釈を受ければそれでいい。今使える術を強くするならそれで充分だ」
 帰るぞ、とだけ言い、椅子に座ったまま見送る凍冶を確かめて部屋を出る。
「別に何とも思わないなら、彼女に会っても問題はないと思うけれどね」
 呟きにしてはずいぶん大きな独り言は聞かなかったことにして、海苓は静かに扉を閉めた。


 帰ろうと一度は街の方へ向かいかけたのだが、海苓はふと思いなおして王宮の奥へと向かう。先ほどいた東屋も通り過ぎ、神殿の廊も抜けて、奥へ広がる森へと踏み込んだ。
 石碑を祀るこの森は、誰でも入れるようになっている。神族にとっては礎となる森だ。時折人々が祈りを捧げたり鍛錬を行う姿も見られるが、今は誰の姿もなかった。
 海苓とほぼ同じくらいの石碑が広場の中央にそそり立ち、静かに海苓を出迎える。
『この地へ生まれ着いた者よ。更なる高みを目指し日々魂を磨き、いずれの日か、神々の元へ至らん』
 そこに刻まれた文字は、すべての神族の支え。
 そして、海苓こそがその事実を『証明する者』だ。
 無言でその碑文を見詰め、海苓は息をついた。
 幼い頃からずっと心にあるのは、――遠い記憶。自分の遥かな過去に確かにあった生であり、今の自分へと繋がっているもの。
 人々は海苓を憧憬の目で見る。彼が神族が神族たる所以を明確にできる唯一の者だからだ。
 だが。
 海苓は目を閉じると、すべてを嘲笑うように笑みを浮かべる。
 気楽なことだ、と思う。誰も、この苦悩を知らない。記憶を持つが故に自身が縛られると知ったら、人々はどう思うのだろうか。
「これなら、記憶なんてない方がいい」
 焼きついた記憶の最期は戦場。そこがすべての始まりで、そしてすべての歪みを終わらせる場所でもある。
 すべて断ち切り、あるべき姿に返すことこそ、自分の望み。そして、『過去』のことでありながら、海苓はそれが可能な立場にいる。


 何もかもが終わったら、自分は果たしてどこに立っているのだろうか。
 海苓は空を見上げる。いつもと変わりない、青空だった。



2008.3.22


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