時の円環-Reconstruction-




「……講義?」
 鈴麗が光玉の口から思いがけないことを聞いたのは、神族の地に来てから三度目になる夕食の席だった。
「そう。医学書に興味を持っている人たちに、かいつまんで講釈してほしいというのよ。人に教えたことなんてないのだけどね」
 質問を向けられた母は、なんでもないことのように平然としている。
 魔術に優れるが医術の発達していないこの地において医学を身につけた光玉や鈴麗が求められたということは、鈴麗自身にも既知の事実だ。しかし、その動きがこんなにも早いとは思わなかった。
「あの荷物を片付けている暇がないわねぇ」
 そもそもあの中のどこにしまったのだったかしら。光玉はさしたる緊張もなくいつもの口調で考え込んでいる。

 鈴麗は呆気にとられて食事の手を止めた。母の豪胆さは昔から知っているのでそれは問題ではない。問題なのは光玉が講師となって神族たちに医学書を解説するということそのものである。
「……それ、私も参加していい?」
「どうしたの? 鈴麗が知っている本だから、今更聞くことなんてないと思うけれども」
 そう言って光玉が挙げたのは、確かに鈴麗が既に修めている医書だ。しかし、鈴麗が言いたいのはそういうことでもない。
「っ、だって」

 鈴麗自身は、光玉から実際の治療については色々教わっていても、医書の手ほどきを受けたことはないのだ。読み解くことは自力でやるように厳しくされ、どうしてもわからないことを質問してやっと教えてもらったという苦労は未だに覚えている。
 それを神族にはどの程度か分からないが一から教えるというのだ。大人気ないが面白いはずがない。
 もうひとつ理由を挙げるなら、光玉の解釈を聞いてみたかった、というのもある。基本的に医書を学ぶときはまず自分で読んでみるようにしつけられたために、母が同じものをどのように理解しているか知る機会がなかったのだ。
「別段構わないわよ。ただ、聞いていても面白くないかもしれないけど」



 次の日、鈴麗は愛林に今まで馴染んできたような動きやすい服を用意してもらった。こちらの方が落ち着いて楽なのだ。今日は別段王に謁見するというわけでもないのだし。
 母が講義するのだという医書を用意して、鈴麗は両親に続いて王宮へと向かう。
 研究棟と呼ばれる建物の一室に、会場は設けられていた。

 今回使う書は、鈴麗たちがこの地へ来た次の日には既に複写され、講義を希望する者へ渡されているらしい。こんな短期間で印刷などできるのかと鈴麗は驚いたのだが、これも魔術の賜物なのだという。もっとも、必要な冊数が大量ではなかったせいもあるらしいが。
 鈴麗たちが辿り着いたときには既に大方の参加者は揃っていた。

「思ったより多いわね。ちゃんと説明できるかしら」
 光玉はまったく困っていない顔でそう言ったが、実際のところ参加者は片手を超えてはいるものの、鈴麗を加えても両手を超えない。神族の人口が鳳族よりいくらか少なく二百万に足りないということを考えれば、圧倒的に少数派だろう。
 父はあのとき確かに言ったけれど、思ったより道は険しそうだ、と鈴麗は思った。
 部屋もこぢんまりとしていてこの人数を収めるにはちょうどいい広さだ。つまりは予想済みだったということだろう。各々が好きなように所々に座っていて、光玉の隣にいる鈴麗にも視線が向けられる。
 当然ながら鈴麗の素性など知れ渡っているから妙な気分だ。不快感が生じなかったのは、鳳族の中で向けられてきた侮蔑や差別の視線ではなかったから。考えてみれば敵対していた鳳族の女性から教えを乞おうというのだから、少なくとも鈴麗や母を見下すことはないのだろう。
 一番後ろに誰もいない机を見つけ、鈴麗はこそこそとそちらへ移動することにした。どうやら部屋の中の人々の興味は手元の医書と明らかに異質な栗色の髪を持つ女性に向いているようで、視線から解放された鈴麗はほっと息をつく。

 すべてを見渡せる場所から、鈴麗は参加者を観察してみた。
 今いるのは、鈴麗と両親を除いて六人。女性は一人きりで、残り五人は男性だった。年齢は幅広く、とりあえず鈴麗がこの場にいるものの中で最年少なのは確かなようだ。
 予定時間直前になって、最後の一人だという青年が謝罪の言葉と共に室内へと入ってきた。既に講義の準備が整っていたせいなのか、前に空席はたくさんあるのにもかかわらず、青年は壁際を通り鈴麗の隣の席へと腰を下ろした。
 隣に座られるとは予想外で、鈴麗は思わず肩を強張らせる。
 全員が揃ったのだということを確認してから、光玉の講義は始まった。



 確かに、聞いていても面白くないかもしれない、というのは半分当たっている。
 予定されている講義時間がちょうど半分過ぎたところで鈴麗はそう思った。
 やはり今まで聞いたことのなかった、この医書についての母の解釈を聞くのは参考になる。自分の理解した通りだった部分もあるし、そうでない箇所もあった。
 面白くない、の部分は、他の参加者に起因するものだ。
 当然ながら彼らは鳳族の医学知識にはまったく触れたことがなく、この医書に書かれている診察の仕方や病気についての定義自体未知のものである。そして自ら希望しただけあって彼らは学ぶことに意欲的であり、分からないことがあれば即座に質問する。
 その度に光玉は丁寧に解説をして、全員が納得した上で次に進んでいくものだから、講義の進行が大変にゆっくりなのだ。 
 鈴麗にとっては既に当然のこととなっている知識も多いから、ちょっと退屈な部分もある。そして時間が経てば経つほどその割合が増えていくのだ。そのうち、今更訊くまでもないことに話が及んだときは、鈴麗は講義の参加者を観察するようになった。
 誰もが真剣に光玉の話を聞いている。手元の本に何かを書きつけていたり、別に用意した冊子に書きとめている人もいた。
(すごいよね……)
 きっとこの人たちの誰もが魔術や法術を当たり前のように使いこなす。その上でこうして医学を学びたいと希望しているのだ。

 代わる代わる質問する人々を見ながら、鈴麗はふとあることに気がついた。
 隣に座る青年は、講義が始まってから一度も光玉に質問をしていない。その割りに開始直後はものすごい気迫で話に聞き入っていたようだから、無理やり参加させられたようでもなさそうだ。
 視線だけをわずかに青年のほうへ向けると、彼の手元の医書は、今話している内容と完全に違うところが開かれていた。時々光玉の話に興味深げに頷くと、医書を開き直してその箇所を確かめ、そして頁を元に戻す。
「全く話を聞いていないようですが、どうかしましたか」
 医書に目を落としたままの青年に小声で言われ、鈴麗は我に返った。一応盗み見ていたつもりなのだが、どうやら完全に気付かれていたらしい。慌てて前に向き直る。
 忍び笑いのようなものがかすかに聞こえて、鈴麗はばつが悪くなった。
 海苓に会ったときもそうだったが、ぶしつけなのにも程があると自分でも反省する。

「まあ、それも仕方ない。あなたにとっては今更な話でしょう。鈴麗殿」
 が、次に続いた青年の言葉に、鈴麗は思わず彼の方を向いてしまった。
 光玉と一緒のところを見たわけでもないのに何故知っているのかと怪訝に思い、だがそれも当たり前かと思い直す。
 参加者それぞれ顔見知りのようだった。見覚えのない娘が一体誰なのか、それなりに予想はつくはずだ。存在を聞いていれば、それを鈴麗と結びつけるのも簡単だろう。
 そして、青年は鈴麗が彼を観察していた理由も簡単に看破した。
「私は話の内容が理解できたので質問をしないのです」
「……医学をご存知なのですか」
 驚きと共に鈴麗が尋ねると、青年は楽しそうに笑う。もちろんこの会話は講義の邪魔をしないよう、小声で交わされていた。
「昔から他の人よりはこの手のことには馴染んでいたので。できればもっと次の段階を学びたいとも思うのですが」
 こればかりは足並みを揃えなくてはならないから、と青年はひどく残念そうに言う。それを聞いて鈴麗は静かに息を呑んだ。

 父は――華瑛はなんと言ったか。鳳族の医学を修めながら、神族の法術を使える鈴麗は稀な存在だと。しかし、この青年のように鈴麗よりも容易く医学を理解できる者がいるなら、鈴麗はさほど重要な存在でもないのかもしれない。
 父の言葉に浮かれて驕ってはいられないということだ。医学知識の量、医者としての腕なら鈴麗は母に遙かに劣る。しかも、魔術の程度は本来の神族の力で見ればおそらく幼子以下だ。
 どうも自分は険しい道にいるらしい。鳳族である母よりも、神族たちよりも、ずっと厳しいところにいる。ここにいることを望むなら、それは受け入れなければならない。けれど、それでも鳳族のところに居続けるよりはいいはずだと、鈴麗は思った。

 
 
 講義は成功だったと言っていいだろう。終わったあと、参加者は皆満たされたような顔をしていた。誰も部屋を出ず、光玉の周囲に集まり彼女を質問責めにしている。母もにこやかにひとつひとつの質問に丁寧に応じていた。
 鈴麗はその輪に入っていない。それは隣に座っていた青年も同じで、鈴麗は彼に視診の方法についての説明をしていたのである。
 ちなみにそれは今日の講義ではまったく辿り着いていない先の部分。
「……ああ、そうか」
 鈴麗の説明に青年は納得したとばかりに表情を明るくした。確かに診察の方法については書かれてはいるものの、その文章が若干捉えにくかったということだろう。鈴麗も掴み取るまでは散々苦労した。
 それを容易に教えてしまうことに対する複雑な気持ちもあったのだけれど、問題は使いこなすことの方だと思うので、とりあえず横においておく。

「やはりそう簡単に身につかないものだね」
「分かりにくいですか?」
 説明が悪かっただろうかと鈴麗が表情を曇らせると、青年は頭を振って苦笑した。
「いや、医学を使うための感覚というのだろうか、考え方がやはり我々の常識とは異なるから――それを身につけてしまえば、医学を学ぶことは難しいことではないのだろうけれど」
 それを聞いた瞬間、鈴麗の中にあるひとつの考えが浮かんだ。つい先ほどとはまったく逆の。

 どうやら、医学の基盤と魔術の基盤と、両方とを持っているのは自分だけらしい――。それはいずれ自分だけではなくなるにせよ、現状は鈴麗ただ一人。医学を学びたいと望む神族に医学の考え方の理解はなく、鈴麗より医学を知る光玉は魔術を知らない。
 つまり、鈴麗は橋渡しになることができるのだ。光玉が分かりえない部分と、神族たちが基礎として持たない部分を、鈴麗ならそれぞれに補うことができる。
 それはひとつ道を間違えば驕りになる。けれど、居場所が欲しいと望む鈴麗には、この上なく甘美な誘いになった。
 そうなれば、鈴麗がするべきことはごく単純だ。医学も魔術も一人前に理解していなくてはならないのだ。それは決して容易い道ではないのだけれど。

「わざわざありがとう。おかげで疑問が解けた」
 青年の言葉に引き出されるように、鈴麗は思いついたことを口にしていた。後から思い返したとき、何故この青年を選んでその質問をしたのか自分でも不思議でならないのだけれど。いくらか話したせいで鈴麗自身が馴染んでしまったのかもしれない。
「魔術の……法術を学ぶのにいい方法って何ですか?」
 医術と同じで、それはきっと書を読んでいるだけではどうにもならないに違いない。
 鈴麗の突然の質問に、青年はわずかに目を瞠った後面白そうなものを発見したかのように笑った。その切れ長の目の光が不意に和らぐ。
 いきなりの間の抜けた問いにも、青年は怪訝な顔をしなかった。それだけでも鈴麗はほっとする。
「そんなに私も魔術に優れる方ではないけれど、あなたがよいなら私が教えても良いですが」
「あ……すいません。教えてほしいと言うつもりではなかったんですが……」
 しかし、結局は誰かに教えを請うしかないということだろうか。
 考え込んだ鈴麗に、笑みを浮かべたまま青年は交換条件だとあることを提案してきた。
 ――青年が鈴麗に魔術について教える。その代わり、鈴麗の知る医学の知識や医書を青年に提供すること。
「どのみち、どちらも書を読んでいれば身につくものでもないのだから」
 一人独学するよりも効率的だろうと青年は言う。願ったり叶ったりではあるが、いくらこれから共に医学を学ぶだろうことになるとはいえ、今日会ったばかりである。しかし青年はちっとも意に介さないらしい。
 鈴麗も、この青年には警戒を抱かなかった。
「ええと……そんなものでよければ、よろしくお願いします」
「私は凍冶といいます。こちらこそどうぞよろしく、鈴麗殿」
 そう言って、青年は鈴麗が不思議に思うほど楽しそうな表情を見せる。こうして契約は成立した。 



 数日後、光玉と鈴麗は華瑛の妻と娘として正式に発表され、鈴麗は神族として認められることになる。



2008.4.22


Index ←Back Next→
Page Top