薄紅天女 阿高×苑上

ここで、永遠に


2.『阿高』―――誘い 



 阿高はわずかに土埃を上げる乾いた道を家に向かって駆けていた。
 その背中を春の陽気に暖められた穏やかな風が追いかける。
 仕事も一段落済んだ昼下がり。傍にいつも一緒の二連の片割れ、藤太の姿はない。阿高が行動を起こすよりも早く、彼は既に姿を消していた―――素早いことだ、千種のところへ向かっているのだろう。
 もちろん、今日の別行動はお互いに了承済みのことなのだが。
 緩やかに右へと曲がる道なりに首をめぐらすと、彼の目的地、竹芝のお屋敷が見えてくる。
 たぶん、彼女の仕事も一段落済んでいるはずだった。


「鈴!」
 彼女の姿を見つけると、阿高は大きく声を上げる。洗濯物を入れていたのであろう籠―――もちろん今は空っぽのはずだが―――を傍らに置き、クロやちびクロと戯れていた鈴はその声で顔を上げた。
「阿高」
 阿高の姿に気付いた鈴は立ち上がって軽くほこりを払うと、そのまま庭へと駆け込んでくる阿高を出迎える。
 髪を降ろして後ろでひとつに束ね、普通の娘が着る膝よりやや長い丈の衣を着た鈴は、よく見かける村娘とさほど変わりがなかった―――武蔵の娘よりも幾分か肌が白くはあったが。武蔵へ来た頃と比べると、洗濯へ向かう姿も板についてきている。
 一時期は郡内の娘の間で大騒ぎにはなったが、数ヶ月経つうちに、鈴も馴染んでしまったらしい。よその娘とよくおしゃべりをしては一緒に仕事をしているようで、騒ぎの一部始終を知っている阿高としてはようやく安堵したところであった。
「お帰りなさい、阿高。どうしたの、そんなに急いで」
 そんな阿高の思いを知ってか知らずか、鈴はいつもの穏やかな笑顔で阿高にねぎらいの言葉をかけてくる。
「―――もう、洗濯は終わったのか?」
 やや上がった息を整えながら阿高が尋ねると、鈴は足元に目を向けてから答えた。彼女の足元の籠は空っぽだ。
「ええ、ついさっき終わったところです」
「じゃあ、夕餉の支度までは時間が空いてるな」
 鈴は不思議そうに首を傾げながら頷く。予想通りの展開に阿高は嬉しくなった。
「今から、鈴を連れて行きたいところがあるんだ―――桜を見に行こう」


 屋敷の中にいた美郷に一声かけて、阿高が鈴を連れて行ったのは集落はずれの山だった。
 阿高たちはよく狩りに入り込むところだ。村の女性たちも、山菜を採りに入ることがある。集落の者には馴染みのある場所であった。
 鈴も、ここには来たことがあるという。娘たちと山菜や茸を採ったことがあるらしく、登り始めは阿高のわずかな心配をよそにしっかり阿高についてきた。
 けれど、阿高が目指したところはそこよりもさらに奥深いところで、鈴にとっては娘たちに迷うから入ってはいけないと注意された険しい場所。
 都から武蔵への道中、そして武蔵に来てからの山歩きで鍛えられたとはいえ、まだ体力的には劣る。徐々に足元が危うくなってきた。
 現に、今も―――。
「きゃ」
 うっかり足を乗せてしまった少し大きめの石が斜面を滑り、鈴の足をすくう。後方へと体を浮かせかけた鈴を、慌てて阿高が引き止めた。
 急な斜面を覆う土といたるところに転がる石ころに足を取られること数度。登り始めからだいぶ経つが、中盤を過ぎた頃からこの調子で、二人の進む速度は格段に落ちていた。
 鈴の息も上がってきている。
「……やっぱり、俺が負ぶって行こうか?」
「……大丈夫です。まだ、歩けます」
 阿高が声をかけると、鈴は首を振り、深い息とともに拒否の言葉を口にした。実は提案したのはもうこれが三度目なのだ。
 ―――連れて行ってもらうのではなくて、歩いて一緒に行きたい。
 その度に彼女はそう言って、阿高の提案を拒んでいた。
 阿高自身の気持ちとしては、一秒でも早く目的地に着きたかったのだが、無理強いはしない。―――彼女がそう望んでいるのだから。
 けれど、三度目の今回は鈴もさすがにそれ以上の言葉を口にしなかった。肩の動きが大きい。
 阿高は辺りを見回し、座ることが出来そうな倒れた古木を見つけると、俯いたままの少女に声をかけた。
「―――鈴、少しあそこで休んでいこう」



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