薄紅天女 阿高×苑上

ここで、永遠に


3.『鈴』―――桜花 



 急だった斜面は徐々に勾配が緩み、緩やかな上り坂になっていく。
 十分な休息をとったせいか、鈴の足取りも、元の弾むような調子に戻っていた。おしゃべりをする余裕もある。
「阿高、どこまで行くの?」
「大丈夫、もうすぐ着く」
 登りには随分と時間がかかった。帰りは下りとはいえ、麓にたどり着けば、まず間違いなく夕餉の準備の時間にはなっているだろう。
 それを心配して鈴が前にいる阿高に声をかけると、振り返った阿高は優しげな笑みを浮かべて答えたのだった。
 阿高が立ち止まる。急に木々が途切れ、光が一面に溢れる。
「どうしても、鈴に見せたかったんだ」
 阿高の声に応じて、鈴は顔を上げてその先を見た。

 光の幕の向こうに、樹齢数百年と思われる桜が、大きく広げた枝いっぱいに薄紅色の桜を花開かせていた。
 
「うわぁ……」
 
 鈴は感嘆の声を上げた。それ以外の言葉が、出てこない。
 思わず、根元へと駆け出す。今まで山道を息を切らせて登ってきたことが嘘のような速さで鈴は桜の下へと駆け寄った。
 そこから上を見上げると、鈴の視界は一面の桜色で覆われた。
 よく見れば、全てが同じ色なのではなくて、雪のように真っ白い花びらも、やや緑がかったものもわずかに混じっている。それが、ひとつの桜を織り上げているのだ。
 桜花をまとった枝は、鈴が手を伸ばしたよりも高いところにあった。
 穏やかな春の風に揺られて、そこから数枚の花びらがくるくると踊りながら鈴の髪へと舞い降りてくる。
 それを受け止めようと両手を差し伸べていると、背後から声がかけられた。
「綺麗だろう?」
 花びらが手のひらに乗るのを確認して、鈴は後ろを振り返る。彼女を追いかけて桜の木へと歩いてきた阿高が、隣に並んで鈴を見下ろした。
「ええ、とっても綺麗」
 鈴がにっこり微笑んで答えると、阿高は急にしゃがみこんで鈴の視界から姿を消す。
「阿高? ……きゃあっ」
 何が起こったかわからないでいると、突然鈴の足元から地面がなくなった。阿高が鈴の足元をすくい上げて、鈴を抱き上げたのだ。
「こうすれば、届くだろう?」
 阿高は楽しそうに笑う。鈴は、足を支えられて阿高の腕に腰掛けていたのだ。
 腕を伸ばせば、一番低い枝に触れられることに鈴は気付いた。
 つかんだ枝を揺らすと、風に吹かれるよりも勢いよく花びらが二人の上に振ってくる。大部分は二人の服の上を滑って地面へと舞ったが、数枚は二人の頭にくっついたままだ。
 何だか嬉しくなって、鈴は何度も枝を揺らした。
「鈴、あんまり揺らすと花が全部なくなるぞ」
 髪から花びらを払い落としながら阿高が言うと、鈴はぴたりと揺らすのをやめる。その代わりに鈴はもう一度思い切り桜を見上げた。
 昔も、こうして花見をした。
 兄に肩車をしてもらって、桜の枝を手に入れようと無理をして、枝を取る代わりに兄を思い切り足蹴にしたのだ。
「ねえ、阿高。この桜、持ち帰ることは出来ない?」
「枝を折れば、持って帰れるだろうけど、すぐ枯れてしまうぞ。―――ここで見るから綺麗なんだ」
 そうかもしれない。
 阿高の言葉に鈴は頷いた。この山の中で、光を浴びて咲いているからこそ、集落の中で見かける桜よりも綺麗に輝いて見えるのだろう。
「鈴はずっとここにいるんだ。これから先、何度でも見に来ればいい」
 そう、これから先、何年、何十年と、武蔵で暮らすのだ。生きている限りは何度でも桜の季節は巡ってくる。一度きりではない。これから先、何度でも好きなだけ見に来ればいい―――。
 鈴は阿高を見下ろす。
 これから一緒に生きていく人。兄や弟と別れるのは何より辛かったけれど、それ以上に二度と逢えなくなることが嫌だった人。
 血を分けた家族と二度と会えない哀しさも、この人が一緒ならば、抱えて生きていける気がする。
「そうね……じゃあ、そのときは、阿高と一緒に見に来ることにするわ」
 もちろん、と阿高は笑った。
 そして、彼は鈴を見上げてこう言ったのだった。
「元気になったみたいだな」



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